明石書店問題ついて考える

まんが クラスメイトは外国人 -多文化共生20の物語-ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか (明石ライブラリー)女性と労働組合労働組合リーダー論
どうやら明石書店社長の石井昭男氏は毀誉褒貶相半ばする人らしい。そういう人だからこそ僕の興味も増幅します。
「 私の人生を決めた少年時代の思い出」(明石書店社長 石井 昭男)
◆id:font-daさんの記事がとてもよくまとまっている。
明石書店の労使紛争について - キリンが逆立ちしたピアス 明石書店の労使紛争について - キリンが逆立ちしたピアス
昨日の都労委会社側反対尋問のレポの詳細も訊いてみたい。
その前に助走として、あるところで、ある若者が書いた「5つの病」の一文を紹介します。
こういう注油は必要ですね。一部、僕の方でデザインを変えたりしたりします。

ちかごろ都に流行るもの。五つの病あり。
「比較の不全」
「言いっぱなし症候群」
「有罪推定病」
「拗ね者の抑圧委譲」
「下方同調圧力」

(1)比較の不全 (またの名を「どっちもどっち病」)
イスラエルとハマス。アメリカ軍とイラク、あるいはアフガニスタン。近いところだと、在特会と反対運動。
彼我の主張や立場の違いが認識できない。彼我の力の差がどういう状況を生み出しているのか、因果関係も認識できない。そこにあるのはただただ行動の背景や動機も勘定に入れない善悪論。
なぜか両者は自動的に同等の存在として扱われる。
物理的衝突があると「片方も悪いが、他方だって悪い」と単純化されちゃう。
「どっちもどっち」という結論だけが、最初から決まっているようなもの。
そうした結論を出すことが現実の追認になっていることにも気づきにくい。
街場のケンカのような私闘をさばく論理で世の中すべてを見ることには無理がある。
(2)言いっぱなし症候群
「Aは問題である。Bは問題である」とだれもが言う。でも、問題があることに気づけたら、次は何をするか。ふつうは個人的な実践の次元でみんな悩む。ところが、問題認識と個人としての実践が離れてることに焦燥を覚えず、無痛覚な人がいる。例をあげちゃうと・・・。
「アメリカは戦争国家だ、野蛮な国だ」という結論が固定され、そこに日本が歴史的にどういう形で関係してきたかということを考えない人。戦争がテレビの向こうの現実に留まってしまいかねない危うさがある。
「今の若者はナショナリストが多い」という結論先にありきで、カウンターアクションに取り組む若者の存在を見ない人。そういうタイプの人は、状況の変化に気づけないし、現場じゃ彼らの孤軍奮闘が続いちゃう。
行動至上主義になっちゃうのは確かにまずい。特定の行動に参加しないやつはダメだ、となっちゃうと権威主義になりかねない。分裂を生むことになる。やり方はいくらでもあると思うし、そもそも正解はないはず。
勉強会でも署名でもデモでも、やれることがあったらやっていけばよいのだろう。
人によってできることに幅は出てくるし、無理なく長く続けられるやり方であることが大事かな、と厚木基地騒音訴訟運動に従事されている方のお話を聞いてて思うことしきり。
(3)有罪推定病
推定だけでネガティブなイメージを植えつけられた人がヘイト/社会的処罰の対象になる現象。
一般に人間の認識は原因→結果という具合になっている。たとえを出すと、こんな具合に。
「某は悪いことをしたから、逮捕される」「某はヘンなことを言っているから、批判される」
でも、一部の人間の認識はこんな具合である。
「逮捕されたから某は悪いやつである」「某は批判されているからヘンなヤツなんだろう」
ネガティブな断片情報から恣意的に人格や「問題」が逆算されてしまう。原因と結果の転倒でできる「推定有罪」社会は怖い。この感性はネットによって増殖し、他罰的な世論を作る。
おととしの8月、アフガニスタンでペシャワール会の伊藤和也さんが拉致され、亡くなられたときのことを思い出す。伊藤さん拉致の一報が伝わった瞬間、世の中にはペシャワール会の活動を子供の遊びのようにけなし、中村医師や伊藤さんが無謀な夢想家であるかのように扱う論調が溢れ、「自己責任論」ばかりが説かれた。「拉致された」という事実からの中傷に近い推測だった。
ところが、伊藤さんが亡くなったという一報が入り、国際的に哀悼を表すメッセージが届けられた瞬間、世論の風向きが180度変わった。あの光景はあまりに異様で不気味だった。日本社会は一人の人間が生命をかけてやっていたことすらイメージと先入観でしか語れない場所、定見のない場所であることが露骨にあらわれた。これって、かなり重症だよ。
この病の症状は誤認逮捕や冤罪といった局面でよく表れる。警察のやり方が不当だったのでは、という疑いより先に、「こいつはきっと危ない人間であるに違いない」と、そこから始まる。デフォルトは有罪推定。警察のみならず、社会もまた疑わしきを罰する。無罪推定ではない。
その先に待つのは、何かを主張して誰かと争うことから我が身から遠ざけようとする強迫的な清潔さ。そして、ひたすらな萎縮。つくづく監視社会に適した社会風土である。デモに参加していて冤罪で逮捕され、3週間拘留されて戻ってみたら仕事がなくなってた、という人はそうした社会ゆえに存在する。
(4)拗ね者の抑圧委譲
(2)とも関係するが、「評論家」「批評家」になりがちな人が多い。インターネット上の交流が盛んになってきて、はっきり見えてきた傾向だけど。現場にコミットするリスクを考えての無意識の処世術かもしれないし、あるいは、汗をかくことよりも状況を網羅的に把握して語ることの方がスマートで知的だと思っているのかもしれない。
みんなそれぞれ事情はあるし、一概に悪いとは言い切れないんだけど・・・。
本当は異議申し立ての声を上げたいが、そうできないストレスを抱えた人間の中からは、実際に声を上げている人間を皮肉っぽくケナすか、頭ごなしに押さえ込むことに耽溺する人が、悲しいかな、必ず出てくる。後ろめたさと自己正当化の欲求が原動力になってるのが容易に見て取れる。
それはつまり、拗ね者の抑圧委譲。
2chにたむろしたり、人のブログに延々と下らんことを書き続ける手合いは大体そうだ。
抗議の声を上げたいから抗議する、という健全さはこうした種類の人にとってはまぶしすぎるんだろう。だけど、皮肉って、つまるところは臆病者の美徳、弱さの表れでもあるんだよなあ。
愚直でも正面切って物事を主張し続ける態度の方が好ましい。皮肉ってユーモアにも程遠いしさ。だいたい、いくら能書きが巧くても、言うべき事を言うべき場所で言えないと、あとで空しくなるじゃん。労働問題なんかもそうだけどさ。
(5)下方同調圧力
極度に経済状況が悪いせいか、不平等感を肥大させる人が目立つ。その果てに在日特権なんて言葉まであらわれた。だけど、「いくら以上税金を納めてないと選挙権なし」という時代のように、日本国内のことについて、日本人が享受できないような大きな利益や特別の権利を一般の在日の人たちが持っているとは言えないだろう。
福祉給付などについては、むしろ日本人より不利益を蒙っているケースが厳然としてある。憲法判例集をナナメ読みしただけですぐに分かることだ。錯視を錯視と実感できない、「もしかしたら勘違いかもしれない」と自分に歯止めをかけることもできないところまで来た人が街頭で日の丸を振る。
彼らはほとんど例外なく、自らに課せられた不利益を排し、正当な権利を受け取る方向に運動するのではなく、不利益の平等化をはかる方向に物事を進める。「誰々の条件は不当だから引き下げろ」という声はいくらでも出てくるが、「自分の状況を上向きに引き上げてくれ」という声は出ない。
他罰的なことばを吐く人間は、自分自身が権利を主張する正当性も手放してしまっている。だから、いっそう誰かの足を引っ張って相対的に自分が浮く可能性を追求するしかなくなる。そうなってしまうと、オルタナティブが出てこなくなるし、未来に待つのは閉塞だけ。
と、ダーッと書き連ねてはみたが、ハマるときはハマる罠なんだろうなあ・・・。

僕より親子以上、孫世代に近い若者からこんな一文を寄せられると、今の若者は満更捨てたもんではないと、希望が生まれる。
さて、明石書店の石井社長は「人権問題」が原点だと言う。そうなら、そこをぶれないで出版人として、経営者としておのずから歩く道は明確だと思うがどうなんでしょう。