疑問だらけの管降ろし

 加藤典洋毎日新聞夕刊文化欄(8月11日)に「疑問だらけの管降ろし」と僕自身もイライラしていた管首相をめぐるあまりにも「床屋談義」的政官財やりとり、メディア報道の底が見える低レベルのかしましにウンザリしていたが、さすが加藤典洋さんとその診断振りに思わず膝を叩きました。
 加藤さんの視点は捻くれたものではなくとても当たり前の正常しすぎる反応でしょう。
 どうしてかような正論が通らないのかとつくづく思うけれど、やはり政官財の既得権益共同体が合理性(凸知)の裂け目(凹情)に居直って駄々っ子しているのか。
 でもどうもそれらはそのことをわかってやっているのかネタとしてあえてやっているのか、もしそうなら余計怖い!せめてメディアぐらいは大人の対応をして欲しいねぇ。
 加藤さんのツィッターによると主張のポイントは政治(凸)と経済(凹)の峻別だということです。一部引用。

 政治家も、官僚も、新聞人も、いま政治は何を「やるべきか」にふれないまま、首相の人品、居座りをめぐる事情通的なウラ話に終始する。だが我々は、いま未曽有の困難にある。政治の話をしようではないか。
 現今、最大の政治課題が原発問題、再生エネルギー法案、発送電分離にあることは、はっきりしている。電力をどうするか、この夏をどう乗り切るか、など「凹みを埋める」課題は、政治ではなく、経済の問題である。
 政治とは何か。
 ハンナ・アレントによれば、経済が凹みを埋めるのに対し、政治とは「新しい価値(凸)を創出する」活動をさす。
 管首相は、「やりたいこと」=新しい凸として、脱原発、再生エネルギー法案の上程、発送電分離への意欲を明らかにした。しかし、これに誰一人、自らの対抗価値(凸)を明示することなく、人格等の問題にことよせて首相の凸を取り下げさせようとしている。これが管降ろし政局の本質であろう。
 なぜ、反対派は、彼らの価値(凸)を対置しないのであろうか。このことは、彼らが要するに隠れ守旧派であって、自らの提案(凸)としては現状維持(原発推進)以外にないことを語っている。表だって反対すれば、自らの価値=凸(原発推進)が明らかになる。すると国民の信を失う。そのため、「人心」、手続き等の問題をもちだし、復旧・電力問題(凹)で国民を脅かし、首相の政治的主張を葬り去ろうとしているのである。そういう構造が明白なとき、この構造を指摘する代わりに首相の「心なさ」、手法陋劣をあげつらうのは、産経コラムの如く、ためにする議論でなければ、ジャーナリズムの自殺であろう。
 私の目に、東京電力と一体になった経産省に代表される政官財の勢力がサボタージュを続け、国民の代表である首相の政治努力を空洞化させようとしているさまは、戦前の軍部のあり方と瓜二つと見える。戦前、軍部は、自らの政治的主張(凸)を掲げず、もっぱら凹を押し出し、自分の考えが通らなければ閣僚を引きあげることで内閣を総辞職に追い込んだ。
 八月四日の海江田万里経産相による原発関連首脳三名の更迭でも、更迭理由が「語られ」なかったのは、語れば累が全く同罪の大臣自身に及ぶからだ。この人は国会の質疑で泣いたが、その政治家失格、電力共同体の傀儡ぶりが、涙、「言葉の不在」によく表れている。いま、文民統制(シビリアン・コントロール)が求められるとしたら、自衛隊に対してというよりも、これらの既得権益共同体に対してであろう。いま首相がやるべきは、経産相の更迭である。首相ができなければ、新聞がそれを主張すべきだ。いま起こっているのは、これら政官財の一勢力による文民の意思の押し込め、戦後の価値の全否定だからである。(後略)


 せめて推進派が正攻法で凸攻撃する気迫で論争を巻き起こしてくれれば「攘夷」か「開国」かの凸の攻防で武田徹氏の言う「囚人のジレンマ」の二進も三進もいかなさを回避して第三の道が開かれるかもしれない。
 幕末の大政奉還、今日は尊皇攘夷だったのに明日になれば尊王開国になったりと凸凹で問題を先送りしないで凸凸で政策論争・運動を戦ったから明治と言う時代に着地できたわけでしょう。守旧派だって凸の部分があるはずだ。堂々と主張すれば良い。

>表だって反対すれば、自らの価値=凸(原発推進)が明らかになる。すると国民の信を失う。
 [ヤラセではなく表だって推進説得すればひょっとして想定外の国民の支持を得るかもしれない。]

 凸+凹=〇、でまったりじゃあ砂漠化は避けられない。とぼとぼと歩くことさえ出来なくなる。