萌芽のようなもの恥ずかしげに…

ショパンのバラードがナチス将校の裡に「イスラム教徒」と呼ばれたユダヤ人を他者として受け入れさせ、自他を不分明にする。「恥の穴」の磁場に深く陥ったのか、聴き呆ければ、世界は変貌し、彼はピアニストに拉致されてしまっている。大澤真幸の『文明の内なる衝突』の文体風で言うならば、

まったき受動性のうちにあるユダヤ人(ピアニスト)を起点とする、自己触発の循環に中に、積極的、能動的に巻き込まれれる。逃れる術はない。ナチス将校もその中に拉致されるのだ。

ナチス将校の美談を西欧的ヒューマニズムで説明すると、又もや欺瞞に陥る。だって、イスラエルパレスチナにおいて何をしているのか?西欧的普遍性の極北は虚無か、又は、逆転の排除の論理ではないか?そのような西欧的ヒューマニズムの欺瞞性にうんざりしている。映画『戦場のピアニスト』でそんなことを考えました。そんな時、いずみさんから、読書会用のレジュメが届きました。転載します。(旧ブログより2004年5/12)

『文明の内なる衝突』―からの連想・印象―メモ
◆自分の手に余る本について敢えてこれから幾許かのメモを記す。ここに大事な観点があると感じ惹かれるものがあるからだ。もちろん、不用意な発言は、この本にこめられた肝心なものを損ないかねないことは承知している。謙虚さを忘れずに、ただ、もっとよくこの本を理解したい。わたし(達)の問題として。興味の対象となるのは主に二つ。
◆一に「普遍性」を巡る大澤の思索、既存の「三幅対」が現実に対応できなくなった今、新たな視座を得んがための模索。その後をついて辿ること。もう一つ、「無条件の贈与」を具体的に実現せんがためにはこれではまだ足りない、もう一歩先を考えたものが次に求められる、と、探すこと。以下、この本に即してというよりは、そこから連想された他の人、本、ものごとについて、リンクを繋いでいくように連想するまま順不同に記してみる。現在の世界に対し、既存の社会哲学の三幅対は対応できないでいる。それを超える新しい概念を示唆する、これはその萌芽のような本。問いかけであってまだ確たる答えはない。かろうじて萌芽として「恥」の概念が提起され、911後になすべきであったことを「ごく単純なこと」という印象的な形容をおいて「アフガニスタンへの徹底的な大規模な(経済)援助」と大澤は言う。そして「赦し」、と言う。「恥」「赦し」という言葉の使い方に戸惑いを覚える。そういう言葉で捉えていいものなのか、もっといいものがあるのではないかとか、端的に、やや甘くはないか?と。ユートピアを夢見るような感もなくはない、そういやあとがきに「忘れてしまった夢になる前に、これを書いた」とご本人も書かれているが。そういう点でも、これはまだ萌芽のようなもの。繊細で、か弱いもの、注意深く育てないと消え入ってしまいそうな。
◆そこで連想…「無条件の贈与」について。想起したのは立岩真也。彼は最新作『自由の平等 簡単で別な姿の世界』(岩波書店)のなかで「必要なものを必要な人に届けるための社会的分配の正当性」について、考察を巡らす。本人もこれはまだ完成品ではない、これからの仕事のはじめの部分だとあとがきで書いているが、そういう意味ではこれも「萌芽」の本。しかし、緻密な思考によって大澤の言う「無条件の贈与」を具体的にこの社会の中で実行可能にしていくためのヒントが多く盛られていると思う。「思う」と書いたが、立岩独特の文体は行きつ戻りつ、難解で一読しただけでは要約不能(故に参照サイトを後述する)。とは言うものの、副題の「簡単で」の通り、実はしごく簡単で単純なことなのだ(再度、大澤も「単純」と言ったではないか)。それは、引用すればこういうこと。
◆?「私がつくったものは私のもの」を至上命題としない、働ける人が働き、必要な人が必要なだけとる。?一人一人が生きていくこと、そのための自由を守ることこそ、何より大切なことだから。この単純さに至る為に繊細かつ緻密な思索が要請されるのだが、「無条件の贈与」を具体化していく上で立岩の仕事は多くの示唆を与えているのではないかと思う。また連想。岡真理のこと。ホロコーストユダヤ人、またアフガニスタンの人々、サバルタンとも呼べる人々について書かれているくだりを読むたび想起する。フェミニズムの範疇で捉えられがちな彼女だが、ここで挙げられている諸問題について考える時、また「贈与」する際に関しても岡真理が例えば『記憶/物語』等の著作で提示した視点は欠かせないのではないか。殊に「無条件の贈与」。そうは言うもののうかつにやるのは他者への侵害になり得る、それを避けるためにおさえておくべき視点。「普遍性」を巡る大澤の語りは独特だ。魅力的。「第三者の審級」という語を頻繁に絡めてその空虚さ、不可能性を説く。普遍性を求める先には否定しかない……テロしかり。あるものがそのありようを極点にまで追い求めた時、反転するかのように逆説的なものが現われる……ところが特徴的。
森岡正博『無痛文明』を想起した箇所。
? 第三章4節、資本主義が原理主義に変質していく過程を描く中での「見捨てられた周辺・中心」のくだり。? 第四章末尾近く、「赦し」に必然的に伴なう私と他者のアイデンティティの根本的な変容。そうして奇跡的に、瞬間的に到来する<普遍性>……のくだり。問題意識を共有しているところ多々あり、とみる。そもそもタイトルにある「文明の内なる」という発想じたいに無痛文明との類似性が……。いや、いずれも、既存の思想では対応できなくなり新たな概念が必要とされている事態に現状への鋭い認識を持つ者が対応するものであるからには類似を感じるのも当然のことといえる。大澤と東浩紀の『自由を考える』の主題にも通じる。もっと他愛ない連想もろもろ。映画の。ホロコーストの話が再三出てくるが、ユダヤ人が「イスラーム教徒」と呼ばれたくだり、映画『戦場のピアニスト』を連想する。ゲットーの描写から始まって、主人公が一人生き延びる、その姿がまさにその「イスラーム教徒」と呼ばれたものではないか。(しかし彼はあの印象的なピアノ演奏のシーンによって、「人間性」のきらめきを瞬間取り戻すのだが……これが示唆するものは?ナチス将校が彼を助けたのも何を示唆している?)この映画が911以降に作られたものであることは、この本で書かれていることとリンクしているのでは?(p.192末尾の段落。歴史学も直視せざるを得なくなった現状に対応している)レヴィ=ストロースのエピソード(p.60)。
◆映画『エレファント』の、そのタイトルをつけた際監督の脳裏にあった話を想起する。曰く、「盲目の仏教僧数人が、自分の手で触れた部分の印象しか語れず、物事の全体像は見えにくいと言う教訓話」。思えばこの本も、全体像を捉え難いこの現代社会を、それでもやむにやまれず何とか捉えようとした果敢な試みとも取れる。かなりの部分で成功しているのだろうが、その全体像の大きさのせいか、わたしには分かり辛いところもあった。ひとつ疑問。この思索は、日本の日本人だから可能だったのでは?とも(あまりこういう言い方はしたくないのだが)。特に、キリスト信仰者からみてこの論はどう受けとめられるか、異論があるのでは、とも。2004現在、彼はここから如何なる道程を辿っているのか、恐らく一歩一歩進んでいるであろうそれを知りたい(今後の私課題)ー以上、一部参照等、割愛しました。文責は栗山光司です。

◆読書会の宿題がペンディングのまま年を越したのですが、少なくとも萌芽のようなものが、ちょっぴり顔を覗かしてくれそうな予感があります。

小説も哲学も、数学の計算のように最後の答えだけが問題なわけではなくて(しかし、哲学などは答えが書かれていると誤解している人が多く、小説でさえも答えのようなものが書かれていると思っている人が多いのだが)答えようとする道筋、もっと言ってしまえば、世界の対する不可解さを問いの形にまでするところにしかその仕事はない。不可解さが整った問いの形をとることができたとしたら、もうあんまり答える必要はないのだ。(『新潮二月号』保坂和志ー散文性の極致216頁ー)