亡霊的プロレタリア?

 そうやって私はアイラーを聴いた。68年に初めて耳にして以来、何度も何度もこの体に帰ってくる。アイラーその人は、聖人でも革命家でもアレゴリー作家でもない。エリー糊に近いオハイオの田舎からやって来た麻薬中毒のサックス吹きにすぎない。70年12月25日の彼の死にはもう何の神秘性もない。前衛ジャズの突出者とされたが、生活は悲惨なもの。麻薬の売人と金の支払いをめぐってトラブルを起こし、冷たい川に叩き込まれた黒いドブネズミ野郎にすぎなかった。そして川面に浮かび、ゴミと一緒にスタテン島へ流されていく。その遺骸はどこでどう間違ったかベトナム戦争の戦死者として葬られ、彼の墓は引きとり手のない死者として陸軍墓地の中に今もある。それらすべてを含めて、アイラーの音楽は私にとって「ネズミの歌」なのである。
 「ちんもくのなか/ちからないこえが/どうにかして/こっちこようと/もがいている/ふこうにたえるちからを/どうしたらつたえられるのか」ーーと、ヨゼフィーネについてアフォリズムのような詩を書いたのは高橋悠治である(『カフカ 夜の時間』、晶文社より)。彼はアイラーの音楽の価値など露ほども認めないが、その這うような力と方向をこれほど正確に表した言葉はない。
 1928年にベンヤミンは、『蒸気船ウィリー』の中で生まれたばかりのミッキーマウスを見て、幕が開いたばかりのブレヒトの舞台『三文オペラ』の中で暴れ回るロンドンの貧乏人たちを重ね合わせようとしていた。その時、四年前に出されたヨゼフィーネという歌うネズミの物語を思い出していたとしても、『カフカ論』を書いた思想家にとってそれはごく自然なことだったはずである。ー平井玄著『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』よりー

 僕はフリージャズはわからなかった。だが、平井玄のこの本を読むと、アルバート・アイラーに対する強い思いが伝わる。フリージャズはわからないけれど、この本はわかる。下に紹介した間章の音を聴いたこともなければ、本も読んだことはない。でも『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』は、うろたえるほど揺さぶってくる。とても不思議な、怖い本だ。
 松岡正剛紹介の間章の『時代の未明から来たるべきものへ』1982 イザラ書房も読んでみたくなりました。

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

ミッキーマウスのプロレタリア宣言