think the earth/百年の愚行・欲望

百年の愚行 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY [普及版]『百年の愚行』(紀伊国屋)は「かなしみ」と「沈黙」に満ちている。その背後に「生きたい」という人々の欲望が燃え盛るのが見える。愚行であろうと、今、生きることが最優先の倫理的価値なのだと、人々の哄笑が聞こえる。それは又、私の内なる声でもある。若者からメールが来た。

団塊世代等、50歳代というのは学生運動や組合闘争がありつつも、基本的には高度成長時代を生き、戦争のトラウマもなく、ある意味一番オイシイ世代だったのではないかと思う。結構、冒険をしてやりたいことをやりつつも、社会自体は安定していて、食うには困らないみたいな。はっきり言って、僕らがジジイになる頃って社会がどうなってるか想像もつかず絶望的だし、まして僕らの下の世代になればなるほど、そんなことすら考えてないくらい、社会に全く期待してないみたいなんだけど、ある意味、60年代って人類の歴史のピークだったのかもしれないと思う今日この頃です」。

◆僕の青春時代は彼の言う60年代であった。まさか、今の若者達に嫉妬されているとは思わなかった。確かに壮年の充実した時にバブルの饗宴を浮かれ騒いだのも我々であった。今更、リストラで右往左往しても仕方がない。20世紀の前半は戦争を軸とした愚行である。後半は大量消費、大量生産、そのためのエネルギー確保に伴う核、石油などの環境破壊を軸にした愚行である。少なくとも、後半の愚行の大半は我々の世代が責めを負うべきかもしれない。だが、今日の消費文明のシステムを根底から否定する事が不可能なら、犯人は我々一人ひとりなのだ。21世紀の幕開けだというのに、9.11が起き、その反省もなく、20世紀以上の愚行を又、やり遂げようとしている。20世紀の始め、15億の人々がこの百年で60億人となった。2050年には100億人と予想される。益々種としての人は繁栄の一途である。20世紀は愚行も生んだがオイシイ果実をもたわわに実らせた。その果実を主に団塊世代が味わって、ゴミの山を築いたと若者に弾劾されたわけだが、このシステムを旗幟する限り、青い水球(地球)を貪り尽くすまで、我々の欲望はとどまる事を知らないであろう。恐らく、種としての人が絶滅して始めて、この地球は延命出来るかもしれない。―〔bk1書評“栗山光司”ログ〕より―

Think the Earth プロジェクトは「われわれはまず、『執着するもとのもの』を捨て去るべきである」とメッセージを送るが、余りにハードルの高いモラルである。それが出来ぬなら、この世は地獄と観念して生きなさいと、突き放された気がする。
されど、千人の花に守られて、戦い挑めば、ドンキホーテー位にはなれるかも知れぬ。それとも、これっきり、お陀仏になるかもしれません。そうなれば、千の花に飾られて、千の風に吹かれて、葉っぱになって、千の行脚で千の道をたどります。