三島由紀夫/あなたはつねに謎

◆1970年11月25日、東京市ヶ谷自衛隊総監部を襲い事成らず自裁。『豊饒の海』四部作絶筆。公式的には1968年憲法改正を求めて「楯の会」を結成してからの、当時、生半可のぼくなりの解釈は陽明学の「知行合一」説から、当然の成り行きと思っていました。ぼくのいた本屋の店頭では、三島由紀夫はもっとも重要なキーワードで、何万円とする限定本まで、予約が入っている状態で、個人的にも棚構成に三島を巡っての曼荼羅陳列をしていました。それが、楯の会を結成してから、違和感が徐々大きくなり、「本気なのか、芝居なのか」、その見立ては判らず、事件のあった数日前、同僚達と喫茶店三島由紀夫の仮面が強烈な意志によって、素面を凌駕するリアルを獲得して、事を起こす可能性について話していたことを思い出す。「陽明学」であれ、「葉隠れ」であれ、摘み食いの知識しかないのに、結構、熱くなって語っていた。だから、事件が起きた時の反応は、「やっぱし」であった。店頭で三島由紀夫が飛ぶように売れた。日頃、本と縁のない人達が来て、「何でもいい、三島由紀夫をくれ…」って言うのです。どうしようもなく、本の手配が出来ず、取次ぎの返品倉庫に眠っている汚れ本を取り寄せても、お客さんは納得して買っていく。ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作の「三島は気が狂った」っていう言葉は空しく宙に浮いていた。彼は、ヒーローだったのか、トリックスターだったのか、様々な分野からのアクセスが何十年となく、分析、解釈の試みがなされているが、恐らく、それは、肝心なところで、見当はずれになっている気がする。だからと言って、ぼくには三島由紀夫を語ろうにも、語りえない。鑑賞することしか出来ない。俗な見立てをすれば、ノーベル賞を授賞していれば、別な局面があったと予想する。三島はこの賞が欲しくて堪らなかったのは、自身隠し立てしていない。だが、1974年に佐藤栄作が授賞した皮肉は、80年代のバブル景気の前触れだったのか、三島の首がそんな経済の生贄として、血を流し、僕自身、本屋を辞めた漂流の80年代であった。
坪内祐三が『1972』で、「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」で、1972年以降の時代批評を見事にスキャンしているが、特に80年代の凸凹のないフラットさは、身にしみて理解できる。50年代、60年代、70年代初期は記憶が沢山あるのに、それ以降を思い出そうにも、記憶喪失というより、端から刻印されたものが、何にもないのです。本も読まなかったですね。何をしていたのか、だらりと、遊んでいたのか、明日、『三島由紀夫全集』第41巻が発売されます。講演、朗読、対談、歌唱など、三島生前の肉声を7枚のCDに纏めた全集初の試みで、そのものずばり『音声』。6090円です。彼の声を浴びて、三島の謎を感じてみたい。