7/17に記:斎藤貴男は1958年生のフリージャーナリストで、『機会不平等』、『非国民のすすめ』『人を殺せと言われれば殺すのか』とか、タイトルだけでも、興味をそそられるラインナップの本を上梓している。「安心の暴力性」って、森岡正博の『無痛文明論』の痛みを受容することに繋がるであろうし、『平和ファシズム』/『安心ファシズム』と、どこがどう違うのか、平和(非暴力)/戦争(暴力)で整理しきれるものでなく、平和(暴力)/戦争(非暴力)っていう思考実験も必要ではないかと思っているぼくにとっても興味あるタイトルです。例えば、ナチスの戦争、収容所での振舞いは暴力でなく、処分、とか、処置とかで始末される非暴力的な装置による抹殺ではなかったか?痛みの感じられる社会って、暴力がキーワードになる気がする。暴力を抹殺する力が『安心のファシズム』で平和言説に押し上げられて、非暴力的暴力装置は戦争を始める。このあたりの問題を短絡的に権力構造で分析処理するのは心理的にも、経済的にもコストはかからないが、問題のありようをズラして見る必要はあるとは思う。『安心のファシズム』は非常に今日的である。