『方丈』わかり合えなくてもコウカンは出来る

◆山寺のおしょうさんの『方丈』で、『死』をスレに『<死>と<死者>』、『他者と身体』、『「死」後』など、ぼくなりに「死」を立ち位置に「民主主義の欺瞞と虚妄性」が稼動しなくなったブッシュ、反ブッシュというマッピングから第三の道がないかという思考実験の叩き台として、この方丈に参加書き込みさせてもらっているのですが、僕自身の中で未整理のまま、何が飛び出してくるのかと、恐れおののきながらも、ハイな気持ちで、書いていることが、やはり不安で、ここがある種、ぼくの思考の車庫だと思いなして、当分、このブログを『死』スレの車庫入れに使います。今までのぼくの書き込みを総括しておしょうさんはまとめてくれましたので、まずこれをシリアルナンバーをふって、保存します。

?これまで私にとっては「死」は「死」であって、「死者」という観点はもっていませんでした。葉っぱ64さんのコメントは、単なる死が「死者」と現われた――自分自身の姿と重ねて明日は自分もあのようになるのだという「孤」の自覚と、言葉の通じない決定的に不可解なるものとしての「他者」への直面――とき、ヒトは人になったということなのですね。なるほど、そううなづくならば現代がいかに《死者》と出会うのを避けているかということがよくわかる。「話せばわかる」などと甘いことを言っている間は話にならん、ということか。そこに立ち位置を求めるとすると、第一に恐怖(≒テロ)と死者とを混同してはならない、ということが言えそうです。この点でテロリストの側に対して構えができる。そして第二に、遺族の悲しみといったヒューマニズムに死者を回収してもならない。ここで「民主主義」と距離を取ることができる。(念のため、上は「怖がるな、悲しむな」と言っているのではありません。今は「第三の道〈民主主義・テロのどちらにも与(くみ)しないという意味で第三であって、民主主義もテロも同じ顔に見てしまうならば《死者の眼》です〉が可能であることを確認しているだけです。上の姿勢は、ですから強靭な精神のようにイメージしても、逆に深い慈しみのようにとらえも、どちらでも構わない。ただ、「正義」を振りかざし「報復」を叫ぶ熱狂とは別のものです。〉

その前後のやりとりに興味のある方は、方丈を訪問してロムして下さい。
カキコ参加は勿論、おしょうさんが管理人ですが、大歓迎してくれるはずです。