飛鳥田一雄/朝倉了

社会党委員長でもあった横浜市長飛鳥田一雄は、市役所の近くにあった便利と良さもあって、よく、k書店に寄ってくれた。腰に手拭いをぶら下げて、市長の振る舞いはナチュラルで、市民の人気は絶大であった。「ぼくは池波正太郎が好きでね」って人懐っこい笑顔が忘れられない。市長の学者ブレーンに旧制横浜一中(現希望が丘高校)の同窓生で、朝倉了医師がいた。先生は公害問題に関して市長に知恵を授けていたのですが、その資料本のチェックを新刊が入荷しだい、素人のぼくが直感で、朝倉棚に保管して、来店されたとき、購入してもらうのです。そればかりか、朝倉さんがお客さんなのにご馳走になったり、喫茶店でムダ話する。そんな時、横浜市制の公害問題なんかを折節、耳講話してもらうのですが、詩人の寺田透さんたちや、地元の有名書店の店主や、旧制一中同士の交友の結束の固さに感心し、中央とは違う平気で公害企業を排除してしまう政治力は、とうとう、飛鳥田さんを社会党委員長として市民の代表から、国民の代表へと、中央へ押し出したわけですが、結果は社会党にも、飛鳥田さんにも、不幸な結果になったと思う。
 そして、横浜市長選挙で日共を除いた主要各党の推薦で中央から細郷氏が立候補する。実質、無投票で、横浜市長を選ぶのは「民主主義」の敗北ではないか、自然発生的に市民団体が立ち上がり、何と、学者ブレーンであった朝倉さんが背中を押されて立候補するハメになってしまった。友人でもある飛鳥田さんの押す自治省出身の元官僚と戦うことになり、予想外の健闘ぶりを示して、敗れはしたものの、無党派市民たちの拍手喝采を受けた。
 だが、疲れがピークに達したのか、幾らも経たずお亡くなりになった。訃報をぼくは東京で聞いた。ぼくはK書店をやめていたのです。辞めるとき、色々心配してくれたが、逃げるように横浜から東京へ行った。朝倉さんは逃げなかった。多分、1915年生まれなので、選挙に立候補した頃の年齢は今のぼくと殆ど違わないと思う。逃げるぼくは延命している。木村幹著『朝鮮半島をどうみるか』で、飛鳥田さんのことが孫引用されている。

「帰国後私は家内に『あなたはキム・イルソン主席にほれてしまいましたね』とよくいわれたものだが、まさにその通りである。私は、チョソン民族の偉大な指導者としてばかりではなく、アジアと世界のすぐれた指導者の一人であるキム・イルソン主席にいまだにほれつづけているわけである(飛鳥田一雄ほか『偉大な人民の指導者 キム・イルソン』1977年 140頁)

僕は朝倉さんも、飛鳥田さんも大好きです。その友情をうらやましいと思う。でも、横浜時代が去ったら、国家が露呈したら、友情なんて脆いものでしょう。でも、友情を選択する奴がいることも事実でしょう。国家に回収されないで、武田徹さんの言う“義理と人情”で持ちこたえられるか、いつの間にか、そのことが、ぼくの裡に未決定のまま、保留されている。あの飛鳥田さんだって、キム・イルソンに対してかような言葉を捧げる。国家とは怖いものです。完全に否定出来るのか、出来なければ回収される。