ゴダール

私の唯一の意図は、なにかを言うことにあるのではなく、人々になにかについて語りあわせることにあります……なにかのための撮影をすることにあるのではなく、ある一定のやり方で撮影すること自体にあります《なにかのために》ということがあるすれば、それは、なにかをおこすためです。/私はそれによって、事実を……真実のなにかを含んでいると同時にばかげたなにかをも含んでいる事実を、提示することが……主張することができるようになります。あのときおこっていたことのなかには、興味深いなにかと真実のなにかがありました。それに六七年のフランスにおいては、《あの子供たちはばかげている》という意見に対しては、《そんなことはないさ》と言いかえすことができました。そして今では私には、《六八年のあの子供たちはきわめてまじめだった。かれらはきわめてまじめなことをしていた》という意見に対しては、《いや、それでも、かれらにはいくらかばかげたところがあった》と言うことができます。−ゴダール著『映画史 ?』325より

◆当時、フランスも日本もアメリカも連動していたある種のグローバルの浸透があった。でも、今はかような知のグローバルはなくて、クソリアリズムのグロバールしかないのではないか、そしてその仕掛け人、主役達は大人になった60年代の子供たちでもあるのです。