『葉っぱがアフォード・阿呆ダンス』からの引越し弁明

私はいつも引用ばかりしてきました。ということはつまり、私はなにも創出しなかったということです。私はいつも、本で読んだりだれかから聞いたりした言葉をノートに書きとり、そのノートを手がかりにして見つけたいくつかの事柄を演出してきたのです。私はなにも創出しなかったのです。『パート2』のテクストと台詞の大部分も、アンヌ=マリー・ミエヴィルが私に(われわれが日々の関係のゆえに)つかうのを許可してくれた、個人的な文章をもとにしてつくられました。それ以上のものじゃないのです。私には[創出することが]できないのです…… 私が映画をおもしろいと思うのは、映画には絵画に近いところがあります。絵画でも創出はなされません。修正がなされたり、モデルがポーズをとったり、寄せ集め(アサンブラージュ)がなされたりするだけで、創出はなされません。音楽は違います。音楽はより小説に近いのです。だからなんなら、映画のおもしろいところは、人々がよく言ったように……みんながバカのひとつおぼえのように言ったように、映画はすべての総合(アンサンブル)でありうるというところにあると言えます。映画は、音楽を組立てるのと同じやり方で組み立てられた絵画なのです。テレビでであれ映画館でであれ、映画が同時により多くの人の興味をひきつけるのはそのためです。映画には、まさに絵画的側面があるわけです。だから、ただ単に見つめればいいのです。そしてあとで、自分の見たものを寄せ集めればいいのです。ーゴダール著『映画史 ?』(305〜6)ー

7/14記:ブログ(旧ブログ)を始めて数ヶ月になりました。まだ、試行錯誤ですが、今までの軌跡を俯瞰すると、何とはなしにこのブログ(葉っぱがアフォード・阿呆ダンス)の流れがまるで、他人事みたいに見えるから不思議です。ぼくはbk1でネット投稿書評をもっぱらとして、そのネット体験からBBSカキコと自前のHPはまだ管理はしていないが、ブログってユーザーに過ぎないのにプチ管理人になったような気がするのか、ブログを始めるとより「自己語り」が肥大すると思ったが、意外と自己言及が影を潜めている。
 時々、ブログ上で、bk1に投稿した栗山光司(葉っぱ64)の書評や、掲示板でのログから引用してコピペすると、一歩引きたくなる自己表出にお目にかかることがある。でも、生のまま直に、自分のブログにそんな「ひとり語りの歌」が歌い難いのは、単にぼくのへそ曲りの性格だけでなく、ブログというツールは引用と様々のネットからコピペしてコラージュを織り編んで、一枚の織物を作るのに最適で簡便なツールだと、そちらの方に興味の方向性が移ったのかもしれない。

「自己語り」する余裕と余白がなくなっている。まあ、暗喩というか、間接的に僕が選んだ引用とか、コピペで、かっての古葉竹織(今度の参院に出馬して落選した赤ヘルの元監督)、のように、ベンチ裏に隠れて自己語りすることを無意識にやっているかもしれない。最初にこのブログ名は「引用の歩行器」ってしようかと考えていたのです。でも、「葉っぱがアフォード〜」になってしまったが、単なる引用から一歩出ようとしたのでしょう。(筆者注:結局、一回りして「千人印の歩行器」になってしまった)。

石を投げられる位の自己主張も多少なりとも必要かと思ったのですが、意外と穏便な数ヶ月のブログカキコになりました。軌道修正すべきか悩むところですが、今日、ゴダールの『映画史 ?』の中でゴダールの「私には創出することが出来ないのです」って言う吹っ切れに映画制作の秘法があるのだとする奇妙な自信は、そのまま首肯出来ないが、創出できる自己表現をこのブログの場でやるのは困難でしょう。その萌芽、メモとして、例えば武田徹ブログとか、高橋源一郎日記とか、さすが、プロは読ませてくれると思うが、ぼくのスキルではカラオケ的な自己表出になってしまう。だから、多分、ゴダールの前向きな引用と違って、ぼくの引用はそんなスキルの欠落を補完、ごまかしによる「他人の褌で相撲をとる」引用の大風呂敷の気味がある。
 
でも、素直に他人の思考を拝借は別段、恥ずる事ではない。作庭に借景もまた、ある種のセンスが要求される。もし、ぼくに創出できる自己表現のかすかな僥倖は、その借景にあると思います。それは引用とコラージュによるプラスアルファのナノ単位のかすかな創出でしょう。それが出現したら、奇跡と言っていい。