もてる男前になれます

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)現代思想の遭難者たち批評の事情 (ちくま文庫)
小谷野敦の『評論家入門』(平凡社新書)は野次馬根性で読んでみたので、あまり参考にはならないと思いますが、bk1レビューでGGさんが書いているように1985年発刊の栗本慎一郎の『鉄の処女ー血も凍る「現代思想の総批評」』(カッパサイエンス)を想い出すとあったので、ぼくの本棚に確かあったと探したが、もう処分していました。このカッパブックスは『パンツをはいたサル』と同様、よく売れた本で、数年前までブックオフの百円コーナーでもよく見かけたが、最近は見かけませんね。
かすかに記憶を思い起こせば、クリシンの手際のよい思想マッピングはユーモア溢れるもので、いしいひさいちのマンガで思想を梗概する流れに繋がるのではないかと、今、なんとなく、思いやっていますが、あながち見当違いでもないと思う。結構、かやうな流れは需要があるのでしょう。でも、小谷野さんのは、相変わらず、不貞腐れのノリで怒っているのですが、ユーモアがないですね、クリシンの本は愛嬌がありました。小谷野さんの新刊を読んで、廿年前にタイムトリップして『鉄の処女』を読みたくなったが、絶版でしょう、図書館にあるかどうか…。まあ、此の手の本では、小谷野さんと違って社交上手と思われる永江朗さんの『批評の事情』(原書房)をオススメすべきでしょうね、論壇をより良い距離感で見渡して評論家達の人物評も織り交ぜて交通整理をやってくれている。
う〜ん、でも、評論家と批評家は違うのだろなぁ…。アカデミックな場からのアクセスによって、評論と批評は分かれるのだろうか?書評は批評であって評論ではないし、その辺の事情は評論家、批評家の名刺を持っている人に訊かないとわかりまへん。しかし、毎年年明けになると、できるだけ実践したいと心に誓うことがある。それは、原作を読むこと、映画であれ、小説であれ、絵であれ、音楽であれ、何であれ、評論家の評論を読んでその作品を知ったかのように振舞わないこと、人事で作品を判断しないこと、作品そのものを味わいつくす姿勢を意識してやること、例えば文藝評論家の評論を読む前に原作を読むこと、こんなあたりまえのことが、意外と実践できないのです。

まあ、「あらすじ本」で情報として本を読むという時間のムダ使いだけは、やりませんが…。でも、結構、作品解説を読んだり、その作家の周辺人事で作品を読解しようとする本末転倒をやってしまう愚を犯してしまうのです。出来るだけ気をつけたいと思っています。評論集って結構、面白いものです。だからこそ、本書で小谷野敦が『評論家』、『エッセイスト』の時代だと推奨しているのですが、やっぱ、優先順位としては、いい本、いい映画、いい絵、いい音を読みたい、鑑賞したいです。
例え、『もてない男』であろうとも、ルサンチマンにならないで、素直にいいものに憧れたい。もうイケメンになれないけれど、おとこまえ(男前)には爺になってもなれますからね、原田達さんのブログで、センセイは女学生に「おとこまえ!」って言われたらしい。どうやら、男前とは、イケメンと違って、「気前のよい、太っ腹な男」らしい。成程、「男気」ですなぁ…。