四方田犬彦/森山良子/森山直太朗

(去年の春の頃です)。桂川宇治川・木津川と合流して淀川の流れになります。その合流地点は桜並木の散策路で、見事に咲き誇っていました。石清水八幡宮の神馬(注:神馬は去年の年末亡くなりました)が川床に伏して白いたて髪を靡かして春の酔いに転寝しているような気がしました。(旧ブログ転載)

歩きながら、「さくら」の直太郎でなく、母親の森山良子の「この広い野原いっぱい」がヒットしたのはいつだったのだろうかと、気になり、今、検索したら、1967年である。ああ、やっぱし、すっぴんの彼女にエレベーターで同乗したのは1968年で、成人を迎えたばかりだったのだ。彼女はショッピングセンタービルのイベントで出演し、同じビルでぼくは本を売っていた。羽仁五郎の『都市の論理』(筑摩書房)が飛ぶように売れた。若い女の子たちが、何の衒いもなく買っていくのをニコニコしながら、著者はご機嫌で見ていた。あれから、三十五年なのか、矢作俊彦の『ららら科学の子』と言い、高校の卒業年次が同じ四方田犬彦『ハイスクール1968』は、今と、1968年を往還して「あの1968年は何だったのだろうと」と検証している。
森山良子は二十歳で、僕は二十四の社会人で、四方田犬彦は高校生だったのだ。しかし、その読書量には圧倒される。知に飢え、絶望も希望も、欲望した中高校生達が、背伸びして、本屋に足を運んでくれた。表紙の挿画は、その当時「ガロ」に掲載された佐々木マキのもので、そのレビュー投稿したのが、四方田犬彦の批評家行動のデビューだったのです。本屋の店頭で、大学生、高校生と、こんなムツカシイ本を読むのかと、吉本隆明全集を始め、若者達の熱気が伝染して、社員割引でどんどん購入したが、結局は殆ど、積ん読になってしまった。東京を離れる時、処分して、やっと読めるようになったのが、淀川沿いに居を定めてからである。仕方がない。昔、持っていた本を図書館で借りるという愚を犯している。当然、直太郎君は生まれていない。桜並木を歩きながら、埒もないことを考えました。