廃墟としての自然

kuriyamakouji2005-02-08

「タンポポの国」の中の私 ― 新・国際社会人をめざして
毎日新聞の夕刊(2/7)で武田徹『日本人の生命観〓』を読む。連載が始まるみたい楽しみ。頭だしは「中央高速道路のガードレールから数メートルしか離れていないところに巣をつくるクマがいる」として、写真家宮崎学の言葉を引用して、自然を括弧付きで検証している。クマにとって生まれたときの環境が「自然」であり、「高速道路という文明」を織り込んでいる。ナイーブに自然と言ってしまいがちであるが、精々ぼくらに刷り込められた「自然」は、ぼくに関して言えば、昭和30年代の瀬戸内海の港町の風景であろう。それを基準にして環境問題や生態系を考えてしまう。だから自然保護が自分史のノスタルジックな御都合主義になってしまう。
◆今ぼくの住んでいる街にも大きな川があり河川敷の開発が行われているが、当初と比べ大幅に計画が変更になったらしい。当初は出来るだけ人の手を加えて人工公園らしいものが予定されたが、時代の流れが自然保護という大義名分に冠せられて、逆に出来るだけ人の手を加えない自然のまんまの河川敷にしようと変更になったらしい。武田徹さんが言っていることは、その“自然のまんま”も「昔はよかった」という文脈で構築されて自然のリアリティが脱色されている。

人為と人為を超える偶然・必然の様々な交錯の場である「自然」に対して、新たにどんな人為の一手を打つのであれば許されるのか、逆に許されないのか。

◆まあ、生のままの自然は物自体がそうであるように人が触れることの出来ぬもの、その不可触性にあると思う。その闇を埋めるのは想像力であり、ある種の狂気であろう。いずれにせよ、言葉が介入する。そう言えば、もう昔になるのかサッカーのトルシエジャパンの頃、ちょんまげの通訳ダバディーは『タンポポの国』を書いて、ナショナリズムとアイデンティエィの微妙な問題を全然想像だにしなかった切り口で語るので新鮮な驚きを感じましたが、映画大好きの青年は上記の意味での『自然』は、新宿の副都心あたりで、富士山に登った時は気分が悪くなったらしい。ジャンクフードをお袋の味と刷り込まれたようなうものが、「文明」と言おうが、その当事者にとって「自然」であるのであろう。そんなの病気だよと、排除しがちだが、理屈としては心が壊れていない限り病気ではない。このあたりの問題は多文化主義にも繋がるのであろうが、ここ記事で武田さんが考察しているのは、あちらの世界の生の自然でなく、こちらの世界の「自然」であろう。
◆僕は過去のエントリー♪“ああ、いい匂い”♪♪“野良人とクレヨンしんちゃん、さらば!無痛文明”♪で似たような問題に言及していましたが、括弧なしの自然は怖いもの、善悪と関係ない世界だという認識は持って置くべきでしょう。『降り積もれば…』ブログ『狭間』では社会学者としての良心を教えてくれるが、クレヨンしんちゃんの大人帝国の逆襲のように昭和30年代の東京オリンピック以前の風景が音と視覚だけでなく、匂いどころか、手触りまで、脳内を刺激して、クオリアのようなものが出来すれば、ぼくの少年時代の刷り込みと合体して、これが『自然だと』、『リアルだと』、涙を流すかもしれない。◆そうだとすると、闇市焼跡派と言われた野坂昭如は“何にもない廃墟”を原風景として持っており、恐らくそれは、他の文学者達にも言えたのではないか、“廃墟”としての自然、戦後民主主義大江健三郎にしたところで、そんな廃墟を持っていたはずだ。廃墟を出発点にしているからこそ、文学を信じることが出来たとも言える。文学とはそういう自立性を持っている。正邪、善悪の問題ではないのだ。勿論、癒しとは関係ない。