ロバート・ノージック

◆前日、ハイブリット主義者の宣言みたいなことを言いましたが、よく反論されることは安全の問題です。しかし、百%安全な社会を志向すると、知らぬ間に倒錯に似た狂気が入り込む危険性があるのではないか?ノージック『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』(木鐸社)』はその辺りの問題を考察するに、最適な基本書だと思います。 本屋に寄った折り、いつも気になりながら、その分厚さと重さに、この次にしようと、買いそびれていたら、「メルの本棚」のメルさんが読了したとある。う〜ん、高いし、図書館でいつか、借りるとしよう。 「ユートピア」って美しい言葉ですが、それに酔ってしまうと、「排除の論理」が働く。

◆「文明の内なる衝突」で大澤さんが書いているが(41頁)…。要する ヒトラーが「民族なき空間」に攻撃を執拗に仕掛け、それに対応する形で国内に「民族が溢れる空間」を意識化し、ユダヤ人に対する排除の論理が作動した。そのような悪夢がアメリカの対アフガンで、もはや「ビンラディンなき空間」を空爆する。ところが、アメリカ国内が、そしてさらにはアフガニスタン以外のすべての空間が、いわば「ビンラディンが溢れる空間」「ビンラディンに連なる敵が溢れる空間」の様相を呈しているのではないか、かような情勢分析をする。そして、対イラクも似たような状況である。「大量破壊兵器」はどこにある?無かったではないか?「大量破壊兵器なき空間」を一生懸命、攻撃したのです。もし、この世界で一番、大量破壊兵器のある空間と言えば、勿論、アメリカそのものである。敵はアメリカ国内に溢れているとの倒錯はもう一歩先に始まるかもしれない。アメリカにファシズムの嵐が吹き荒れないように希うが、ヒトラーの狂気の道を歩む危険があるやもしれぬとの認識は持つべきであると、最近、思うようになり始めています。アメリカはベトナムの教訓、ヒトラーの教訓を学習しているはずなので、そんなバカなことはやらないと信じたいが、「ユートピア幻想」から出発する「排除の論理」はより、高次の安全を求めて、止まる事を知らず、次から次へと排除してゆき、最終的には、自分自身も排除する。「そして、誰もいなくなった」との倒錯が完了して、安心立命を得る。そんなのは馬鹿げている。でも、渦中の人々は気がつかない。ヒトラー下のドイツ国内にも善男男女は沢山いたのです。そこそこの危険と、そこそこの安全な社会、そんな社会が「最小国家」を求め、アナーキーでもなく、ユートピアでもないコミュニティに足場を求めて、共存して生きていく、それが、「モザイク立国」でもあるのです。(ネタ元旧ブログ2004/4/04)

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