バランスを失った社会・コヤニスカッティ

kuriyamakouji2005-02-13

カッツィDVD スペシャルBOX百年の愚行 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY [オリジナル複写版]
『コヤニスカッティ』をDVDで観ることができました。レザー、ビデオはされていたが、ず〜と絶版で劇場上映も無理で諦めていたのですが、やっとDVD化されて観る事が出来ることになりました。一部マニアの方達に熱狂的に指示されているものなので敷居の高いカルトムービーかと思いきや、結構、脱力して鑑賞したのですが、やはりこれはPC画面ではその良さを堪能できません。大きなサイズの画面とオーディオ装置が完備されたルームが設置された環境ならば、何倍にもこの映画を堪能出来たかもしれません。でも、セリフもないフイリップ・グラスの音楽環境ビデオとして流すならば、眠たくなって良い心持で瞼を閉じる自体に陥るかもしれない。まあ、それも良いかもしれない。ぼくもPCでの鑑賞でしたが、二三度、こっくりしました。でもこの映画はそんな人を心地よくするコンセプトの環境BGM映画でなくシリアスな文明批評のドキュメンタリー映画なのです。でも最初の三分の一位の人間が登場しない山、川、砂漠、渓谷、空、雲、空撮で撮っていく迫力ある映像の美しさは思わず惹き込まれます。だからこそ、PC画面でなく大画面で観たいと思ったのです。「コヤニスカッティ」とはアメリカ大陸の原住民ポピ族の言葉で、?常軌を逸した人生?混乱した社会?平衡を失った社会?崩壊する社会?他の生き方を脅迫する生き方を意味するものらしい。まさに、直球の文明批評映画なのですが、この映画が上映されて随分の年月が経つというのに、なんら自体は解決されておらず、益々悪化しているのではないかと、
『百年の愚行』(紀伊国屋書店)の反省が次の世紀へと手渡されたかどうか心もとない。根幹にあるのはエネルギー問題だと思う。ポピ族に伝わる言葉として、

地の底の貴重な宝を掘り起こすとき― 大いなる災いが降りかかる やがて空は一面のクモの巣で覆われる 浄化の日が訪れたのである。 死の灰を入れた鉢が傾くとき―

が紹介されているが、単なる感情論でなく党派性を超えて、武田徹の仕事などは追跡していく価値がある。武田徹の『「核論」』や高木仁三郎の『市民科学者として生きる』は読んでみたいものです。