世界には子供が沢山いるのです

アフガン零年 [DVD]アフガニスタン戦禍を生きぬく―大石芳野写真集正しい大人化計画 若者が「難民」化する時代に
アフガン零年』を観ました。子供達のあまりにもシリアスな状況はイラン映画など他のイスラム映画を観ても感じることですが、他の映画においては子供達の、それでも必死に生きる姿に多少なりとも希望なり勇気づけられるのですが、この映画に残るのは行き場のない絶望のみである。ぴぴさんは女性としてこの映画をどうみたのであろうか、『シネマ日記』でロムしてもらうとして、かような問題を解決するには政治、宗教の無力さを思い知らされる。だからとしたら、どうしたらいいのか、何にも思いつかない。賢しらに批評は出来る。対処療法のツールで空爆タリバンをやっつけることも出来る。そして、ブッシュはそうしたわけだが、問題はアフガンの地からイラクへ飛び地し、危険地帯が分散しただけであろう。去年の毎日新聞の記事の切り抜きで大澤真幸の『平和立国の試練』と題した連載のインタビュー記事を概略アップ。

ー対米関係での距離の取り方に日本が揺れています。
(…)日本はイラクへの自衛隊派遣などで米国に忠誠を示そうとしている。一方で、民主主義を教えられ、「素晴らしい」と思ってきた米国への信頼感が、日本人の中で崩れている。おかしいと思いながら信念を曲げてまで米国を支援している日米関係はゆがんでいる。
ー日本のナショナリズムについて。
人間の集団は通常父祖の視点から理想と見える社会を作ろうとするが、敗戦により、過去が否定された。以来、米国から見て立派な社会を作ろうとしてきた。その米国が信頼を失いその空白を埋めるべく、「戦前の日本」を見直そうと新しいナショナリズムが芽生えている。(概略)
憲法改正問題が浮上しています
(…)日本が苦しんでいるのは、憲法と安全保障政策の間の矛盾を無視できなくなっているからだ。このよじれを正すには?憲法の精神にのっとって日米安保を見直す?日米関係をベースに憲法を見直す、の2通りある。私は?を支持する。(後略)
ー具体的には?
日米安保にこだわるのは北朝鮮の脅威があるからだろう。独自の外交努力で脅威を取り除くことをまず考えるべきだ。東欧で民主化が進んだのは、西欧諸国が難民を受け入れたからだ。日本が脱北者を無制限に受け入れる覚悟を決めれば、中国も韓国も国境をオープンにせざるを得ない。逃げ道を確保されれば、北朝鮮のような抑圧体制下でも民主化運動は起きるはずだ。/軍事力に頼らず北朝鮮民主化できれば、日本人が平和憲法に対して持つ「一国平和主義」という負い目も克服できる。(略)

難民受け入れはぼくは昔から、大賛成で、「少子化問題」も克服できる。pipiさんの言うモザイクと大澤さんの難民受け入れは重なり繋がる。ぼくは織田信長安土桃山時代が好きで、信長は「モザイク立国」を目指していたのではないかと、想像します。残念なことに彼は殺されましたが、歴史にたらはないけれど、信長には凄く興味があります。かって、某掲示板で、ぼくはかような問題に繋がるカキコをしていたので、アップしました。

先日の森前首相の女性蔑視発言について、マスコミの報道の仕方について、○○さんは問題視していたわけですが、その事に関して、私のカキコはズレるかもしれませんが、少子化対策基本法の趣旨は「『老後を支える子どもを産むのは国民の義務』という声」を根底にしているから、かような問題発言が産まれたと思う。地球規模で考えれば、50年後に人口は100億人を超えるのであれば、国際養子縁組、難民、移民の受け入れシステムを構築することこそ、国際貢献と信じる、いわば、「ハイブリッド主義者」の私にとって、森前首相を攻撃するなら、その視点から異議申し立てをしたいのです。安全の問題も様々な民族を受け入れる前提で考えるべきでしょう。排除の論理少子化対策を考えるから、ピントが外れるのではないか?そう言えば、私が十六歳まで育った街は、かって、「混血の街」と言われました。「混血」が違和感どころか、肯定的に私の脳に刷り込まれているのかもしれないが、そういう「雑種日本」がイメージにあるのです。「受け入れる」ことを前提にした少子化対策を考えれば、「子供をひとりもつくらない女性が自由を謳歌して楽しんで、年取って…、税金で面倒みなさいというのは本当におかしい」などや、不妊を悪玉にして、「子供をつくらない人々」を弾劾するのは、これこそ、本当におかしい。まあ、私の周りには私も含めて、子供を持たない人が多いこともあり、自己正当化の弁明の嫌いがありますから、あまり、大きな声で言えないが、「世界には子供が沢山いるのです」。

フリーターの問題、難民の問題は労組あたりはもっと積極的にとりあげるべきでしょうね。それによって分け前のパイが減りますけれど、安全・安心の観点からも既得権を手放し、出来るだけ合理的な再分配を組みなおす知恵がないと、みんな一緒に仲良く沈没ということにもなりかねない。まあ、自業自得として将来のことは知っちゃあいないと、大阪市役所問題、NHK問題、政治と金の問題は相変わらず、表に出ても、肝心の一人一人の選挙民が性懲りもなく悪人面を選ぶことだけはやめてもらいたいものです。政治の詳しいことは分からなくとも、テレビ時代のいいところは、顔を見ることが出来ることです。言葉より表情が一番信頼出来る。二番目は語り口、文体ですね。この二つで充分その人を知ることが出来る。話の中身はどうでもいい。
勿論その内容が“創造的言説”ならば、緊張をもって聞耳を立てなくてはならないが、殆どの言説が“決まり文句的言説”でうんざりする。例え右翼的言説であろうとも、三島由紀夫のように“創造的なもの”なら、傾聴するし、左翼的言説であろうとも“衆を頼んで一人の実存を無視するような決まり文句”なら、聴く耳を持たない。
そこに共通にあるのは、他者に会話をする前に、公共性でメッセージを発信する前に、自分自身に対して語る、自分を相対化する。その姿勢が基本の基本なのだが、その基本のない人こそ、他者に対して攻撃的ですね。まず他人に話す前に自己対話を心掛けよと言ったって馬耳東風。そんな自己対話の出来なさを「ぼくは頭が悪いから、教えて下さい」と搦め手から攻撃してくる人もいますが、とにかく、一にも二にも、自分の頭で考えてくれ、悩んでくれと言いたいものです。

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