保坂和志/日野啓三(2004/5/14に記す)

三回目の読書会で『生きる歓び』が取り上げられるので、保坂和志の小説で必ず冠して言われる「日常性」についての考察のサブとして、…。『書くことの秘儀』(集英社)を読みましたが、【bk1でレビュー書いています。『読むことの秘儀』】過去に書いたブログをあげてみました。《本書はかってベトナム特派員生活で、戦場を見詰め、ジャーナリズムの言葉では、戦場の「根源的現実」を捕捉出来ぬと観念して、<書く>ことで、その戦場の向こう側にある、又は、大地深く通底するものの正体を浮かび上がらせようと、それこそが、文学者の矜持として、日野さんは言葉に拘泥する。日野啓三さんは遺作として、本書を上梓したが、かって、あとに続く作家に芥川賞授賞の選評でこんなコメントをしました。

保坂和志氏の「この人の閾(いき)」は他の都合もあって合計四回読んだが、読む度に快かった。あるいは気持ちよかった。おもしろい、感動する、という気分とは少し違う。いまこの頃、私が呼吸しているまわりの空気(あるいは気配)と、自然に馴染む。こういう作品は珍しい。/日常べったりではないか、という批判もあった。だが題名の「閾」という言葉は、そこを越えると気圧ないしエネルギー状態が忽ち変質する張りつめた領域のことだ。「静かさが、こう、這い上がってくるよう」なけだるく懐かしい空間を、作者は綿密に作り出した。何事か起こりそうで起こらない負のエネルギーの張りつめた空間。白っぽく繊細な抽象絵画のような。/われわれが日頃気易く現実と呼んでいるものが立ち現われてくる始原と、それが消えてゆく終末との劇的な両極が、微妙に均衡した静止の一点。そんな時間をこのところ私は息をひそめて生きている気がするし、明日世界が滅ぶとしたらこんな最後の一日を過ごしたとも思う。/日常という言葉の前に「退屈な」とか「シラケタ」という形容詞をつけていた時代は終わったと思う。バブル崩壊阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか。オウム事件に対抗できる文学は細菌兵器で百万人殺す小説ではないだろう。(後略)ー  (『芥川賞全集十七卷』(文春)より)

《数多くの戦争文学はある。しかし、平和文学を冠した文学はあるのであろうか?前世紀は戦争の時代だったと言われる。戦争を戦場を欲望した結果ではなかったか、平和を強く欲望したであろうか?一日の静かな日常を「かけがえのないもの」として、欲望したであろうか。戦争に欲情したのは誰だったのか?誰なのか?「とくに意味のないこの一日の静かな光」に、堪える苦痛、至福を学習するしか、戦争を回避する術はないはずだ。(過去ログより転載)》
♪オマケ:★保坂和志HPのエッセイ集サイトで 『小説をめぐって』がアップされました。今年から新潮で毎月連載することになった保坂さんの小説論です。出来たらこれをいつか読書会のテクストに使ったらいいなぁと、思っています。ちょうど、タイミング良く、アップしてくれたので、とても使い勝手が良いですね。