日野啓三「それでも、世界は存在する」

落葉 神の小さな庭で 短篇集書くことの秘儀ユーラシアの風景―世界の記憶を辿るあの夕陽・牧師館 日野啓三短篇小説集 (講談社文芸文庫)
熱もないし、食欲もある。でも咳が止まらない。咳止めを服用したのだが、、全然変化なし。夜中の就寝時がとくにひどい。薬剤師によると、勘違いしている人が多いけれど、喉まで掛け布団をひっぱりあげて暖めた方がいいと思い勝ちですが、余計暖めると咳がひどくなる。それでシロップの飲み薬を飲んだのですが、効果なし。そんなマイナーな気力なんで、旧ブログ(去年の五月記)をネタに書き込みます。直裁にbk1の拙レビュー(感想文?)【『遺言の美しい短編集』それでも、世界は存在し続ける。】を読んでもらってもありがたい。取り上げた本は日野啓三著『短編集 落葉 神の小さな庭で』(集英社)です。
お茶の水の病室の窓から朝に赤富士、夕に東京タワーが息づき始めるイルミネーションの点滅を見た。私の場合は作者と違って意識は明瞭で周りの風景も確固たるものであったが、日野の幻視は〔ありえないもの〕を見る。風景は揺らぎ、夢と現の狭間に漂い存在の不安に苛まれ、日野の狂いを救ってくれたのは、それでも動じない富士であり、東京タワーであった。彼がこの10年間、入退院を繰り返すもかような美しい短編集を上梓出来たのは「それでも、世界は存在し続ける」と確固たる想いに支えられたからであろう。彼は亡くなった。亡くなる前に読了していたが、もう一度、繙いてみた。購入のきっかけはNHKで日野啓三が出演していて、〔ある微笑〕が朗読されていた。
通院の折、車椅子の日野がエレベーターに乗り込んだ時、老夫婦と同乗となり、扉が閉まると日野はふと、溜息ついた。箱の中に濃密な空気が充満する。言葉は交わさない。短い時間である。でも、彼はひしひしと、老夫婦の存在を細胞の襞まで感じる。
「人間の一生も路傍の雑草の小さな花以上でも以下でもないのだ。そうとわかり合ったとき、黙って頷き合って、そっと微笑を交わす以上の何ができる?」
医師は彼に言う。《「頭を開いたら落葉が詰まってたよ。とてもいっぱい、どうして、あんなに落葉だったんだろう」ー〔落葉〕ー》
葉っぱの一杯詰まった老人は〔天国はこのような者の国である〕と幼児達の声を聞く。

どうやら、「どんぐり」と言っているように聞こえる。それを掌に受け取ると、余程しっかり握りしめていた大切なものらしく、木の実の殻が、うっすらと暖かかった。本当にはそれは何の木の実かわからないが、この児が大切な木の実を私に本気で見せようとして、その好意が自分たちのようにさえ歩けないヘンな老人に伝わったことで、とても楽しそうだった。ー〔神の小さな庭で〕ー
(中略)「本当に大切なのは、この私ではなく世界の方なのだ」、つらいことや腹の立つことが多いけれども、世界はやはりすばらしいし、生きていることの方がいいのだ、といまでは思っている。そうでなくて、なぜ、小説など書くことがあろうか。

追記:(2004/5/23に記す)過去エントリー『戦場の向う側』で、日野啓三の『書くことの秘儀』についてをアップしていましたが、それについて、Slowbirdさんから、コメントがあり、日野啓三に対するエールを貰いました。そのレスをここに書きます。Slowbirdさんはbk1『「あの夕陽・牧師館〜」のレビュー』を書いています。日野啓三は初期作品から、継続して追跡しているぼくの数少ない作家の一人ですが、Slowbirdさんのコメントで、そうか、bk1では、そんなに日野啓三が取り上げられなかったのかと、新たに驚き、お亡くなりになった今では、勿論、新作も期待できず、過去の作品を通して、意識的に、bk1書評乃至、ブログで作品紹介なり、そもそも、日野啓三を知らない人もいらっしゃると思うので、追々機会があるごとに、SlowBirdさんと連携プレイで、「静かな声」で語りたいなぁと思いました。Slowbirdさん、一緒に歌いましょう。