堀江さん、意味を問う感じる男でいたいです

◆寝屋川小学校・教職員殺傷事件で、内田樹さんは連日エントリーアップしていますが、新聞・テレビの解説では気づかせてくれないコメントを発信しているので屋上屋を架すカキコかもしれませんが、内田さんの文脈でぼくも書きたくなりました。それはせめてかような文脈で語られる新聞の社説、論説であって欲しいと益々強く思い始めたからです。そうでなければ、ライブドア堀江貴文の資本主義の市場原理で記号として淘汰されればいいのであって、言論の意味内容で評価する視点をオレは持ち合わせていないと、合理的な啖呵を切られてしまう。彼の言説は裏も表もなくわかり易い。それに比べてマスメディアの組織防衛見え見えの二枚舌、何ら自分に跳ね返ってくる問いを発しない思考停止の決まり文句で構成してしまう記事内容の傾向は自分で自分の首を絞めている。組織防衛のつもりが延命のつもりが死を早めてしまっているマスメディアの振る舞いは確信犯なのか、無知なのか、単なる処世術なのか、痩せ衰えの進度が加速しているのではないか、そんな危惧を感じます。
◆一人ジャーナリストを標榜して、志を持ったジャーナリストを一人でも社会に送ろうと、武田徹氏は去年ジャーナリストコースの講座を開設したのですが、2/17の“JC2004”の最終講義で『暗黒日記』の冒頭に掲げられている、清沢冽が娘に送った文章を紹介している。

「お前が大きくなって、どういう思想を持とうとも、お前のお父さんは決して干渉もせねば、悔いもせぬ。赤でも白でも。それは全然お前の智的傾向のゆくままだ。しかしお前にただ一つの希望がある。それはお前が対手の立場に対して寛大であろうことだ、そして一つの学理なり、思想なりを入れる場合に、決して頭から断定してしまわない心構えをもつことだ。・・・・・お前はお前だ、お父さんはお父さんだ、お前を教育するのに、お父さんの型に入れようというような気持ちは微塵もない。お前はお前が持っているものを、煩わされることなく発揮すればそれでいい。お前は一生の事業として真理と道理の味方になってくれ。道理と感情が衝突した場合には、躊躇なく道理につくことの気持ちを養ってくれ。これは個人の場合にもそうだし、国家の場合でもそうだ」。

ライブドア堀江社長は資本制システムの中では道理何て、居場所なんてないとの認識から出発しているのでしょう。御都合主義で道理を信じていないのに道理を安易にかざして処世術として偽札の道理を振り撒く言論と、ぼくはどちらもにも苦々しい感情を持っているが、敵として看做すのは堀江さんの方がわかり易い。反面教師として堀江さんはもっともっと発言しマスメディアも正面切って報道すれば良い。返り血を浴びるかもしれないが、それによって、既成のメディアの問題点が露出して手術ポイントが明確になるでしょう。でも、それは単に延命策に助することになるだけかもしれない。資本制OSそのものを取り替えることでしか、本当は問題解決にならないのであろう。
◆内田さんは寝屋川・教職員殺害報道で「他罰的」な枠組みで問題を解釈する語法について疑問を呈しているが、恐らくぼくらの暮らしでそんな「他罰的」な枠組みを自己防衛として築いているから他者に対する想像力の働かない報道をしてしまうのでしょう。批評性についても深い考察をしている。内田さんのブログをロムして下さい。♪http://blog.tatsuru.com/archives/000782.php♪♪。
◆同じように根源的な問題について『風の旅人』というまっとうな意味を付与した雑誌を舞台にまっとうな言葉を発信し続けている出版人の方もいます。個人のブログを持って、学者、言論人でも志を持って道理を信じて生きて闘っている人達も少なからずいます。ネットでそういう人達の発言をロムする喜びは、堀江貴文氏の意味を問わない徹底した合理主義を、そんな生き方はやっぱ寂しいねと皮肉を言ってみたくなります。間違いだらけで、合理性から逸脱するかもしれないが、「感じる○」で生きていきたいのがぼくの変わらぬ本音です。「大きな時間の中でささやかだけれど、大事なことを見据えていたい」、他者に惚れる危険性がなければ生きることはつまらない。もし、本当に堀江さんが、記号の世界でキャラ立ち出来るなら、脱帽します。恐らくぼくの疑問はそこにあるのだと思う。果たして“種としての人”はそんなキャラ位相にジャンプして新しいOSを手に入れるのが可能かと、もっと別の位相ではないかと…。ぼくは単に進化の道筋から落ちこぼれた旧人類として忘れられる運命にあるのかと、そんな問いが発生するのです。
参照:オンライン日記
スーさんの熱血うなとろ日記: 学校を責めるメディアと親たち
『風の旅人』編集だより :大きな時間
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