映画の明らかさ―アッバス・キアロスタミ

 ぴぴさんの『桜桃の味』のシネマ日記を読みました。いつでも死ねることが救いになる。風通し良く世界とつながる。明日に死すとも可であるから、今日を生きれる。死も生も出口なき不老不死の牢獄なら、こんな責め苦はない。俗情が癌細胞を増殖させる。身体を世界をどこまでも排除してゆく。生きることが癌細胞に身を任す倒錯生まれ、不老不死の癌細胞の夢を見る。『桜桃の味』のオヤジは自在の死を手に入れた。今日でなくとも明日死ねばいい。その明日が来るまで、生きるだけだ。もし、死が必ず一週間後にやってくる自明のものなら、逆に自殺をすることで出口を求めるかもしれない。でも、そんな自明性は思考実験に過ぎない。余命宣告されても、それを自明とはおもわないであろう。例え、一週間後に隕石が地球に衝突する科学的データを示されても、単なる一つの仮説で、ぎりぎりまで信じないだろうし、でも、思い切り良く自殺するかもしれない。最後の瞬間まで生き続けるかもしれない。どちらもあり得る。解答がなくていいのだと思う。
参照:■住職の部屋 ('05年3月)
2005-02-23 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」2005-02-05 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」oh! cats♪キャット・モーメント? - 葉っぱのBlog「終わりある日常」映画評/キアロスタミ『桜桃の味』
http://www.spice.or.jp/~cineaste/l/937.htm