仏語を話すドラえもん

オヤジっていうよりジジイが『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子著)を読んでいます。オモロイ。先日、某新聞社からシルバー読書会についての電話取材を受けたのですが、気負ってフーコーレヴィナス、何かを持ち出したのですが、少女コミックでも言っておくべきでしたね、今、後悔しています。読書会にコミックはいいかもしれない。アニメにまで拡げれば、色々な問題にリンクすると思う。今日、鶴見俊輔×岡部伊都子の対談DVD『老人礼賛』(藤原書店)を観たけれど、鶴見さんはテレビドラマをよくみていますね。サブカルにもアンテナが拡がっている。
永井均著『マンガは哲学する』で、作者はマンガに求めるものは“ある種の狂気”だという。別段、マンガでなくとも表現には“病としての狂気”と“新しいものを生み出す狂気”との境界線上で綱渡りするのは当然である。あちらの世界に落っこちて、こちらの世界にもどってこれなくなるかもしれない危険を冒しても挑戦すべきものが表現であろう。単なる表層の戯れと峻別すべきは当然である。表現が内面を生み出すとしたら、そんな狂気を孕んでいる。しかし、巷に流布している小説群はプロットという乗り物にデータ保存したピースを組み合わせて狂気を脱色した再現性で、書店の店頭を飾っている。消費するだけで、時間が消える。消えた時間は人々の生活を支える。まあ、それでもいいのですが、いつからか、本を読むなら、古典かマンガかという変な選択肢が僕の中に生まれてきました。本書を読むと永井均さんは、哲学書かマンガになるのです。

内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んでむしろその狂気こそががほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。

なるほど、そんなマンガなら内面が生まれる。魂の交流も会話も成り立つ。章立ては1:意味と無意味 2:私とは誰? 3:夢ー世界の真相 4:時間の謎 5:子どもvs死―終わることの意味 6:人生の意味について 7:われわれは何のために存在しているのか になっており、かったくるくて敷居の高い文庫みたいですが、カテゴリーっていうか引き出しを学者らしく整理整頓したのであって、マンガ名作評論集として読めばいいのではないか、こうやって梗概すると、日本の戦後は“マンガ文化”を生み出した時代として後代に記憶されるのではないかと、今現在進行形のマンガ・アニメの圧倒的な力の源泉を本書で再認識しました。北欧で少年ジャンプが発売とマンガの持つ世界市場性、普遍性は力強いものがある。ベルギーのshohojiさんちで、ドラえもんは人気らしい。色々な国で放映されて色々な国の言葉を喋っているんでしょうね。

追伸:京都新京極にオープンした映画館と音楽屋と本屋と合体した複合ビル“MOVIX”は御機嫌のスポットです。その本屋紀伊国屋を覗くと“ドラえもん新聞”っていうフリーペーパーがありました。『もっと!ドラえもん』(小学館全五巻)シリーズが刊行された号外PR。1号の付録がドラえもんのフィギュアです。