ネット文体教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書

[…]歩行器の葉っぱさんのことばが、というか、文章が、私にもわかるくらいに易しくなってると思いました。何か心境の変化ですか?[…]

 今月初めに、ちゅうこさんから旧ブログにこんなコメントが来ましたので、遅れましたけれど、こちらでレスします。
 そんなに意識はしていなかったのですが、ブログを始めて旧ブログと通算して数年になると、文体上の変貌があるでしょうね、というか、僕って結構、影響されやすいから、ここの常連さんのブログを覗くと千差万別で少なくともあることに気がつきました。
 <1>プリントアウトしてじっくりと読まないと中々理解しがたいなあ〜と、
 <2>脱力して読んでいいんんだ。誤字脱字もおもしろい。そのブログのテキストを読解するというより、音楽を聴くような感覚で全体として楽しむ。
 <3>あくまで禁欲的に情報の提供だけを行う。
 <4>ブロガーのキャラが面白く○○節になっている。
 まあ、こんなところでしょう。勿論そんなにきっちりと分節できるものでなく、一応の目安です。
 そんなことを考えていたら図書館の新刊コーナーに『教科書に載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』(ばるぼら著:翔泳社)っていうなが〜いタイトルの本がありました。ぱらぱらめくってみると、三段組でびっしりと細かい活字で編纂されているので、老眼をかけても読みにくい本でした。確かに労作、力作です。でも、通読するには大変ですね。 ここまでネット情報を整理し分類、年表作成までしたのでしたら、巻末に索引が欲しかったですね。その412頁に“ネット文体を一晩中考えよう”というコラムがありました。サイトの文章と印刷されたものとなんか違う、そのことをばるぼらさんは考えたのです。
 「ネット文体」の特徴は、文語体より口語体、論文調より喋り言葉に近い、まあ、誰もナットクするでしょうね。でも、これは「文章力が未熟」だと結論づけるのでなく、むしろあらかじめ他人を意識した上で採用された文体だと、そしてかようなネット文章のルーツはBBSの投稿にある。≪そこで会話をしている人たちの間に「だ・である」なんて強い口調で参加したら、場の雰囲気を読めない堅苦しい人だと思われそう。だから文章を書くというよりも、文章で喋るというかたちで発達していったというわけだ。≫
 これは物凄くよくわかります。あるところのある掲示板で僕がカキコしてレスされたのですが、圧迫感を感じる、反発したくなる、内容とは別のところでそんなニュアンスのカキコがありました。僕は結構デリカシーに富んだ男なので、びびっと感応して断定口調はなるべく使わないようにしています。
 「喋り言葉の文章」の例証としてコラム方面では植草甚一、文藝方面では新井素子、アカデミズムでは山室恭子ですって。それから、プラスアルファとしてネット独自の特徴をあげるなら、「未完成」感が漂う文章ほど愛されると言う。
 ≪単体で完成された文章は、驚かれるが簡単に消費され終わってしまう。コミュニケーションを生まないのだ。だから書籍の文章をネット公開してもいまいち受けないし(データとしては重宝される)、逆に人気テキストサイトをそのまま書籍にしても思ったほど面白くない。≫
 しかし、「未完成」感漂う文章って僕的には上の<2>に近いものになってしまう。意識して脱力して書こうと思います。ちゅうこさんも脱力して読んで下さい。そうは言ってもしなやかに強靭さを保持しながら脱力するのはムツカシイ。だから暫くは脱力しすぎで、締まらない文章になるかもしれませんが、ご勘弁を…。