希望の自由

 うたかたの日々のエントリー「ショート・ホープ」で東大社会科学研究所で、「希望学プロジェクト」が立ち上がったのを知りました。『希望格差社会』山田昌弘『ニート』の玄田有史らが中心になっているみたい。「宣言など」を読んでみましたが、具体的な運動方針が見えない。これからみんなで模索するということなんでしょう。「希望」を駆動力にするのはとても素晴しいことです。

 カポーティが『冷血』をペリー・スミスの救済で終わらせなかった理由は、事実としてそうだったからでなく、救済されたら『罪と罰』の二番煎じになってしまうからでもない。二十世紀を生きる小説家であるカポーティが、これがリアルだと思ったからこういう形になった。逆に言えば、ペリー・スミスが救済されてしまったら嘘臭いと思ったから救済されなかった。
 これが二十世紀の小説に起こった大きな変化だ。―こんなことは私が言わなくてもみんなが知っていることだけれど、私が考えているのは、リアリティを失わないでなおかつ救済されるように小説が書けないのかということだ。 

 保坂和志『小説の自由』(p214)より。
 「希望」とか「救済」なんて言うメッセージをベタに発信すると胡散臭いものとして受信されたりするが、そこは学者であろうと作家であろうと、説得力のある言葉を地道に構築するしかない。リアリティが立ち上がるを信じて…。人を揺らす。
 ソネアキラさんの言うように「どうも大衆を不安に陥れて、本を大量に買わせて、悦に入っている、そんな悪徳リフォーム会社のような先生が、まま存在していて、怪しからんと常々苦々しく思っていた。」のボヤキもわかる。
 保坂和志に「現代小説が人を犯罪に導く類の歪んだ病的な想像力を文学的創造力と誤解している」(p253)という状況認識があるのですが、そんな想像力ではダメだと本書で一貫して述べている。それを何とか理解してもらうためにこの一冊の本を書いたとも言えるし、「新潮」でまだまだ、迂回と道草で連載されているというわけです。
要は文学や芸術によってしかあらわされることのない想像力による小説なのです。かような想像力だからこそ、「希望」が内包されている。自意識過剰の小説ではないのです。恐らく社会科学としての「希望」の鍵は自己/他者を溶解させる新たな公共性の立ち上げしかないでしょう。(と、言っちゃうと誤読されるかも知れない。公共ってやっかいな言葉です。文脈上で色々な表情を見せる。ここは、保坂さんが言う第三の領域がいいかも知れない)
 国家の問題をどう処理するのか、「希望」と「国家」とは背理ではないのか、宗教は?少なくとも小説は「希望」を書く(現前化)ことが、灯をともすことが、そういうことが出来ると信じている小説家がいるということは僕の救いのひとつにはなっている。