書くこと読むこと 

 連日、保坂和志の『小説の自由』について恐らく書評でない何かのようなものを書き連ねてきましたが、コメントという言葉で一括くくっても、本書の対して何らかの“意味づけ”を僕の言葉でやってしまうのは否めない。例えば時事編というカテゴリーで『小説の自由』から引用する社会的な意味付けは保坂さんのもっとも嫌うところでしょう。最終章“散文性の極致”はアウグスティヌスの『告白』を引用、読解しながら、そんな僕の内に向いがちな精神の弛緩をちくりと刺す。≪自分の居場所から出たくない人にとって、文章とは自分に引き寄せて解釈するものであって、引っ張られて自分がどこかに連れていかれるようなものであってはならない。≫
 つい、肯定形の連鎖で短絡的に考えてしまう僕はアウグスティヌスの「思考を組み立てる手順」は気の遠くなるやうな一歩一歩の迂回と否定形の連鎖で“書くという行為”の身体性で確かめ確かめ、≪小説の外にある意味を持ち込むことや形骸化した言葉の使用法や思考の組み立てに抵抗することによって、≫世界像を産出しようとする小説家の野心はただ唖然として見守るしかない。そして、小島信夫さんのように、保坂和志からゴダールの『映画史』を二冊、送られて、感謝し、

「いまの自分が小説を書いていなくても、このような本を読んでいろいろ考えをめぐらせるのは、小説を書くのと同じことだと思います。」

 僕もそんなつもりで本書を読もうと思う。つもりではダメだなぁ…。
 つもりではカフカの断片が立ち上がらない。

「私が住んでいる部屋の台所に数日前から一人の官吏が座っている」

 何とか読了しました。でも、「新潮」で飛び飛び読んでいたんです。単行本で読み切るとおぼろげながら全体像に触れたという感触がありますね。でも、まだまだ、続くみたいです。岩波文庫アウグスティヌスの『告白』も買っていたのです。でも、読了出来ていない。本書で保坂さんが引用しているアウグスティヌスへの想いはハイテンションで、そうか、保坂さんにとって『告白』は小説そのものなんだ。小説として読もうともう一度ネジを巻いています。