大勢が正しいと言っているから正しい?

 武田さんの更新された日記『再封建化に寄り添うもの』(10月7日)を読んでいると、武田さんの方向性はぶれないし明確だなぁと改めて感じ入る。

 近代化の過程で公的サービスが民間企業なり民間の施設・団体に委譲されて行くプロセスが現れることをハバーマスは「再封建化」と呼んだ。なぜならそこで市民的公共性として成立した公的な領域が私的な領域に溶け出して、両者の区別が曖昧になってゆき、封建時代の国家と社会の未分化の状態に戻るかのように一見して思えるからだ。こうした再封建化は近代社会のどこもが通る道で、小泉改革は露骨に端的だが、その一例に過ぎない。
 こうして再政治化された社会圏が成立すると逆に公共圏は脱政治化する。これがジャーナリズムを公論の担い手としての立場から解放する。そしてジャーナリズムは娯楽のメディアになってゆき、市民的公共性がありえたときには「インターナショナリズム」にむけて開かれようとしていたナショナリズムが再び閉じ、大衆社会がナショナリスティックな熱狂に向かう動きにぴったりと身を添えることで大衆に慰安を与えるだけの存在になってゆく。こうしたハバーマスの読みは、残酷なまでに正確だ。
ナショナリズムに抗って報道するにはその流れに沿って報道するよりも百倍、千倍もの言葉と論理と説得力が必要である。その余裕は今のマスメディアにはない。いかに短く、いかにやさしく、いかに俗耳に入りやすく伝えるかがマスメディアの現状である」と鈴木健二氏は『ナショナリズムとマスメディア』で書いている。[……]

 公共性とは何なのか、それは過日言及していた『ハッカー×ベクトル』のエントリーにもつながるし、現実の運動の中で試行錯誤するしかないのかもしれない。わかりやすい言葉で言語化できないけれど、ただ一つ言えることは、かぜたびさんが言っているように「大勢が正しいと言っているから正しい」とは眉に唾をつけて用心することは僕の最低限度の縛りとして自ら課している。ただそれは個人史の中で社会との折り合いのつけかたが横軸となって作用、反作用の面が現れる。僕が『風の旅人』のリニュアール第一号で思考実験したのは、1960年後半〜1970年後半(30代)の方の読者層が空欄になっているのではないかとの疑問でした。大雑把な世代論をMIXI内の『風の旅人読書会』でブレーンストーミング的な石投げを行ったのですが、30代の方から嬉しいレスがありました。新装の「風の旅人」で1972年生まれの他界した保苅実のテキストが掲載されたことはある種の違和感、刺激を感じてそれが思考実験の気づきになったのです。その保苅さんと同年らしい彼は「風の旅人」の愛読者になった経緯を書いているのですが、まあ、僕と彼と、編集長の世代を超えた共通点は「日野啓三」に間違いないことは事実です。そんな一般化出来得ないことを承知で少し声高に世代論からマーケティング的に「風の旅人」を寸評したのです。それに対して編集長の佐伯さんからブログ上で連日エントリーアップされました。ご参照を…。
保苅実と「風の旅人」と世代論 - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜
「風の旅人」と世代論(続き) - 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜
 やはりこの雑誌は写真が主役で文の方も準主役、又はそれに拮抗する形で掲載されていますが、文の方はそれぞれの執筆人が他の雑誌、本で活躍されている表現者の方たちなので僕にとっては御馴染みの人で読む前から各々の文脈が一応インプットされているもんだから、殆ど知らない写真家達の一枚の写真と比べて驚き度が違うことは事実です。そのような文の中で今までの「風の旅人」は学者、作家の人たちがメインで書いていてジャーナリスティックな話題は生のまま掲載しないように気をつけた編集方針をとっていたと思う。そんな方向性の中で「一人ジャーナリスト」を標榜する武田徹デビューは、もう一つの新鮮な刺激でした。彼自身オンライン日記で書いているように「取材」によらないで書くことの困難さを告白していますが、連載スタートの『見える現実、見えない現実』は藤原新也風だなと微苦笑していますが、幻視者と言えば「日野啓三」で、何か僕は日野啓三風であるとも感じました。日野さんもそうであろうけれど、「都市の廃墟」に感応する琴線が武田さんにはあると思う。まあ、僕にもあるのですが…。
 そのことと公共性に拘泥する武田さんの一連の仕事は僕自身の問題意識とも被るので、おっかけをしているのかもしれない(笑)。僕の中の底なしのニヒリズムと公共性との折り合いを模索する営為と言っても良い。イデオロギーなり、民族なり宗教を根拠とする公共圏の構築は胡散臭いものとして僕は遠ざける。このスタンスは昔からぶれていない。武田さんの中にもそんなものを感じているから追跡しているのでしょうか、まあ、僕の勝手な思い込みもあるのですが…。
 『偽満州国論』『隔離という病』『核論』の文庫化が続いていますが、10月4日の日記に書く『「ひとを支配したくないひとが支配されずにいれる場所」としての「公共圏」、』果たしてそれが可能であるだろうか?可能であろうとなかろうと、その方向性で生きるしかない。