希望を見させてくれます

kuriyamakouji2006-02-09

 今日、まっちゃんさんがエントリーアップしていた『ある子供』を梅田ガーデンシネマで見たのですが、じわ〜っと後でシリアスに重く効いて来るかもしれないけれど、見終わった瞬間は、少なくとも今でも、嬉しくなれる映画でした。希望を見させてくれましたと、言ってしまうのは子供のいない僕の無責任な楽観主義かもしれない。このところ、ブログで「ニート」、「野宿者(ホームレス)」について書いていますが、この映画も若者たちの寄る辺なさがひしひしと伝わりますが、ある出来事、それが出産を通してであろうと、絶対譲ることの出来ない大切なものを失うことで気付く、その危うい綱渡りでしか大切なものを手に入れることができないのでしょうか。『ある子供』は自分の子供を売ることで、「他者を発見」し気付く。希望があるとしたら、人って変わるんだということでしょう。だから世界も変わる。今日の<私>が今日の<世界>が、明日も続くことなんてあり得ない。

<「僕もホームレスのおじさんたちも、おんなじだなって思う」/中学三年から不登校になり、三年間の「ひきこもり」を体験してきた少年S君の、そんな言葉が忘れられない。/ある夜、S君はフリースクールの友人たちと、ゆで玉子を手渡しながら新宿の野宿者たちのもとを訪ねて回るボランティア活動に参加した。路上に生きる野宿の人たちと、じかにふれあい、心を通わせた夜、彼はこんなふうに話してくれた。/「おじさんたちには、屋根のあるうちがない。ダンボールや毛布一枚だけ。僕には屋根のある大きな家があるけど、安心して眠れる家はない。心が還れる居場所がない。だから毎日、自分の部屋で布団に入るときも、明日、僕は生きているかなあって思いながら夜を明かしている。おじさんたちも、この寒い空の下で、明日、自分は生きてられるんだろうかっていう不安のなかで、長い夜を過ごすんだと思う。だから僕もおじさんたちと同じ、ホームレスなんだと思う。」>(北村年子『「居場所」を求めて』[吉田俊一『ホームレス暴行死事件』解説]ー生田武志『<野宿者襲撃>論』(p159)よりー

 生田武志は『キルケゴール論「つぎ合わせの器は、ナイフで切られた果物となりえるか?』(『群像』2000年6月)で群像新人文学賞・評論部門優秀賞受賞した人で本書でもキルケゴールについて言及しイエスの「善きサマリア人の譬え」(ルカ福音書)で言う「隣人愛」について語る。

 「国家・会社・家族」の相互連携によって総中流社会を実現した日本社会は、従来、「隣人」の概念を(イエスが激しく批判したユダヤ教のように)共同体の中に解消することで存続してきた。しかし、「他者とは何か」という問いは、最もラディカルな場合、共同体ではない「社会」とは何かという問いの形を取る。社会は、必ずしも「国家・家族・学校・会社」の共同体の形をとらないからだ。事実、特に1990年代以降、日本社会はそれまで見なくてすませてきた外部に「ホームレスが隣人になる」という形で直面するようになった。そのとき、日本社会の「原理」の限界、言いかえればポスト冷戦期の「普遍」的問題を通して「社会と自己との関係」づけの新たなかたちが問われるのである。/キルケゴールによれば、「瞬間」は時間のアトムでなく永遠のアトムである。では、「隣接」は何のアトムなのだろうか。それは、いわば「普遍性」である。そして、これは宮台真司の言う「公的なものの暴力的な具体」としての「天皇」ではなく、むしろ共同体への批判である「隣人愛」の一般化としての「普遍」である。したがって、それは「資本・国家・家族」を離れて、例えば遠い他国の人、次世代の人々、あるいは「敵」として現れる人々への関係としてわれわれの前に現れる。/「隣接性」は、「善きサマリア人の譬え」で語られるように、従来の共同体に「運命をはらんだ葛藤」をもたらす。しかもこの「葛藤」は、「共同体の中断」によって「普遍性の最初の投影」をもたらすだろう。そして、「瞬間によってはじめて歴史がはじまる」ように、そのとき「隣接においてはじめて社会がはじまる」はずなのである。ー『<野宿者襲撃>論』(p168)ー

 生田が書くように襲撃を行うのが若者だとしても野宿者問題に激しい反応を示し、サマリア人のように「その人を見て、はらわたをつき動かされ、近よって」来るのも若者なのだ。『ある子供』のブリュノにとって「その人」はソニアであったし、そして、ソニアは又、ブリュノを「その人」として気付く。だからこの映画には風通しのよい希望の萌芽がある。

〈野宿者襲撃〉論
生田 武志著
人文書院 (2005.12)
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