加害者/被害者
shohojiさんが僕の『被害者面』に触発されて「被害者」について考えるというスレをマイミクに立てたのですが、そのレスが長くなりそうなのでこちらにエントリーします。その第一回です。
被害者の問題を考えるに、「加害者の問題」を強く指摘しているのは双風舎のleleleさんですね。leleleさんはカンボジアに行き、加害者の証言を地道に聞き取りをしたのでしょう。そういう報道はとても大切だと思うわけです。先日見た映画「ルート181」では加害者としての言葉をインタビューで引き出している。イスラエル人、パレスチナ人の二人の共同監督という有利さが働いたのでしょうが、とても大切なことです。森達也の「A」の仕事のスゴイところはオウム信者の視点をも挿入したわけでしょう。麻原かて何であんなことをしたのか、聞きたいわけです。そのためには加害者の視点から世界を眺める想像力がないと問題解決の一歩にはならないわけです。*1被害者からの情報を大量に受信しても同情と泣くことによるカタルシスとか、癒しとか、継子いじめの映画を観て涙を流した継母が家に帰ると継子いじめをやる、そんな回路は昔から脈々とありますね。そんな回路を検証するためにはどうしても加害者の証言が大切です。
ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)、ドキュメント映画『スペシャリスト』はひょっとして僕らも加害者になりうるという、少なくとも無縁ではありえないという、恐るべき悪の凡庸さでしょう。『スペシャリスト』は1999年に公開されたのですが、残念なことに観ていません。この映画に関しては本とメルマガの同人五月さんが詳細なデータをアップしていますね。かような映画は一度見逃すと、中々観る機会を作るのは難しい。
映画『ホテル・ルワンダ』はまだ大阪では上映されていませんが(2/11〜3/3 九条シネ・ヌーヴォ九条で上映予定)、間違いなく観ます。leleleさんがここに書いているように
それで、ひどい目にあった側の「ひどい目」がどれほどのものであったのかと、なぜ「ひどい目」にあったのかを、ある程度の冷静さを確保しながら分析するためには、やはりひどい目にあわせた側(加害者側)の視点や証言が必要不可欠になると思います。
そのとおりだと思う。この映画でどの程度加害者が描かれているか、そのあたりを問題視して観たいと思います。
今読んでいる生田武志の『<野宿者襲撃>論』で北村年子の『大阪道頓堀川「ホームレス」襲撃事件―“弱者いじめ”の連鎖を断つ』(太郎次郎社)を紹介しているのですが、加害者の若者(ゼロ君)から色々な話を引き出している。ゼロ君は“てんかん”の持病を持ち「いじめられ体験」があったと言う。事件を起こしたときは、無職で彼自身が戎橋で野宿生活をしている「ホームレス」な状態だったのです。彼はこう供述している。「ホームレスの人を見ていると、まるでいじめられていたころの自分をみるようで腹が立った」。
弱者いじめの連鎖、暴力の連鎖は構造の問題として解決しないで、被害者の排除、柵を設けることによる分断で問題を回避する。ゼロ君は中学校でいじめがエスカレートした時、母親、学校側に訴えたと言う。そこで取られた措置は「じゃあ、特別学級に入れます」ということで、なんらいじめをした加害者に対応をしていない。
参照:生田武志のhttp://www1.odn.ne.jp/~cex38710/thesedays8.htm
大阪・道頓堀川「ホームレス」襲撃事件―“弱者いじめ”の連鎖を断つ
- 作者: 北村年子
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社
- 発売日: 1997/10/10
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (4件) を見る