ホームレスはホームはあってハウスがないハウスレスなのか、ビッグイシューと陽気なホームレスの復活戦―THE BIG ISSUE JAPAN作者: 櫛田佳代出版社/メーカー: ビーケイシー発売日: 2004/12/01メディア: 単行本 クリック: 13回この商品を含むブログ (20件) を見る

 マイミクのコメントでかようなタイトルの問いが発せられましたが、そういう問題意識もあって生田武志は「野宿者」という言葉を使ったのでしょうか?
村上龍『半島を出よ 上巻』『半島を出よ 下巻』は冒頭からホームレスのゲットーが登場するが、生田武志の言うように「二十世紀は難民の世紀」、「二十一世紀はホームレスの世紀」はあながちありえない話ではない。自宅の近くの公園にホームレスがひとり住んでいます。彼は僕より若いのですが、もう数年居ついている。でも、公園内にブルーシート、ダンボールを設置しているわけでなく、屋根のあるベンチを利用して何とか雨露をしのいでいるのです。でも、結構地域の人々とも顔なじみで、時々箒と塵取りを持って公園の掃除をしている。歳は僕より一回り若いでしょうね。この公園は一周600メートルのジョッキングコースもあり、街の公園としては広いでしょう。丁度、真ん中あたりから行政区が別で京都府Y市と大阪府H市が隣接しているのです。だから僕はほぼ毎日、京都と大阪を行ったり来たりしているのです。多分、ホームレスの彼もそんな行政区の境界線に住んでいる?わけですから、このロケーションは賢い選択です。大阪府側の校区の小学校は珍しく生徒数が増えているという地域で人口が増えているという珍しい街です。京阪特急も停まることになりましたし、駅前に大きなモール街もオープンしました。でも、映画館、充実した本屋さんがないことが不満ですが、特に映画館は集客力が望めるはずだと思います。そんな噂もあったんです。採算が取れるはずです。
 しかし、公園のベンチは今の時期では寒すぎますね、僕も公園でウォーキングをサボっています。先日駅前でホームレスの彼に会いました。ゴミ袋に新聞紙を一杯突っ込んでいるのです。それを手に持って公園の方に向かって行っていました。恐らく新聞紙を紙子布団として使用するのでしょう。毛布は絶対使用しないのですね。身の回り品を詰めた大きなリュックだけです。

しかし、やがて「世界の境界」は「第一世界の中に第三世界が頻発に見だされるようになり、第二世界はもはやどこにもない」場所へとその姿を変えて現れた。それは、アメリカのような国家では物理的アーキテクチャ(コミュニティと外部を分ける「ゲート」)としても存在している。
 コミュニティと外部を分けるこのゲートは、日本にはまだないように見える。しかし、われわれの周囲に並ぶ「野宿者を寝させないように分割されたベンチ」「野宿者を追い払うための学校周囲の散水装置」「動く歩道」といった物理的アーキテクチャは、社会全体にくまなく及ぶ「第一世界の中の第三世界を隔てるゲート」である。そして、われわれは近所を歩いていても、野宿者の姿を見ているようで「視野に入っていない」。つまり、われわれの「視野」自体、「第一世界の中の第三世界を隔てる」スクリーニングとして機能している。野宿者を「排除」し「殲滅」する襲撃とは、そのスクリーニング機能、物理的アーキテクチャを、物理的「暴力」で簡明に表現したものなのである。「カーテンからゲートへ」「東西の冷戦から南北(格差)の冷戦へ」というこの移行は、今まさに日本で進行している。野宿者襲撃の増加、拡散化はその一つの証である。
 ゲーテッド・コミュニティの中は、均質化された住民の住む「コミュニティ」であり、そこでは「セキュリティとプライバシー」が確保された「聖域」だという。税さえコミュニティで自己完結させ、地域への支払い拒否をすることさえある(「自分たちの税金は自分たちで使い方を決める」=「貧乏人たちのために税金を払う必要はない」)このコミュニティは「島宇宙」の一つの手本である。
 自分たちの暮らしを守るセキュリティのために、公共性を欠落させたこのようなアメリカ社会の島宇宙化、数百万という規模で激増するホームレス層、拡大し続ける貧富の差、そして激烈な野宿者襲撃とともに、ある程度までわれわれの未来を指し示す現実の一断面となっている。しかも、それらはすでに日本でも進行しつつある事態であす。
 われわれには、それらを突破する何らかの概念と実践が必要なのである。(p86~7)

 読書しながら色々脱線し、みなさんのコメントに啓発もされ、関心の高さに驚きます。恐らく他人事でなく自分の問題として考えているのでしょうね。僕はそうですね。野宿者に関して当分の間追記しようかと思います。
 参照:2006-02-03
http://www.geocities.jp/kushidasite/

失踪日記

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