「隣人/介入者」inホテル・ルワンダ

 『ホテル・ルワンダ』を見ました。前日のエントリーで「まあ、僕はチョムスキーの言うように合衆国には他国に干渉する権利がないに賛同しますが…。」とローティに対して牽制球を投げましたが、この映画の文脈ではクリントンでなくブッシュならばひょっとして軍事介入したのではないか、100万人の大虐殺が起こらなかったのではないかとの歴史にはもしがないけれど、そんなことも思ってしまいました。でもやはり1993年のソマリア内戦でのモガディシュの戦闘アメリカのダメージは大きく、例えブッシュであろうとも、軍事介入に躊躇したであろうと想像する。やはりこの十年の流れのなかで9・11が起こり、ブッシュを選んでしまったことに対してリチャード・ローティはそこにアメリカの卓越性と不幸を見るわけですが、この映画はローティの言わんとすることが映像化されているとも言える。西欧的民主主義をあくまで強腰でローマのような帝国となる危険(ブッシュのマニフェストアメリカ合衆国の国家安全保障戦略」)があるけれど、共和国としての姿に希望を託すということでしょう。しかし、「介入の問題」は下に生田武志『<野宿者襲撃>論』で触れられたサマリア人の小話でこんなことをコメント欄に書いていました。

そのとき、ひとりの律法家が立って、イエスをためそうとして、「導師、何をしたら、永遠のいのちをいただけるのだろうか」と言った。イエスはその人に、「律法にはなんと書いてあるのか。あなたはどう理解しているのか」と言った。その人はこう言った。/『「心の底から、自分のすべてをかけ、力のかぎり、判断力を駆使して、あなたの神、王を大切にせよ」(申命記六・五)、また、「あなたの隣人を、自分自身のように大切にせよ」(レビ記一九・一・八とある。』/イエスは、「そのとおりだ。それを実行すれば、人は生きる」と言った。/すると、そのひとは、自分が実践していることを示そうとして、イエスに、「それでは、わたしの隣人とは、だれだろう」と言った。この問いをうけて、イエスはつぎのように語った。/「ある人がエルサレムからエリコに下っていくときに、追いはぎにあった。追いはぎどもはこの人の服をはぎとり、傷をおわせ、半殺しにして去った。たまたま、ひとりの祭司が同じ道をくだってきたが、その人を見ると、道の反対側をとおって行った。同様に、ひとりのレビ人もその場所にさしかかったが、その人を見て、道の反対側をとおって行った。ところが、旅をしていたひとりのサマリア人は、同じようにそこにさしかかると、その人を見て、はらわたをつき動かされ、近よって、傷口にぶどう酒とオリーブ油をそそいで包帯をし、自分のろばにのせて宿屋につれていって、介抱した。そして、つぎの日、五千円の銀貨二枚をとりだし、宿屋の主人にわたして、「この人を介抱してください。もし、費用がかさんだら、帰りにわたしが払います」と言った。/ところで、この三人のうち、追いはぎにあった人の隣人になったのは、だれだとあなたは思うのか」。すると律法の専門家は、「その人の痛みを分かって、行動に移した人」と言った。そこで、イエスは、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言った。(『ルカ福音書』10・25〜37・本田哲郎訳)

 ローティはサマリア人たろうとしているとも言える。「その人を見て、はらわたをつき動かされ、近寄って」来る隣人は介入者でもあるわけですよね。隣人と介入者はどう違うのか、チョムスキーは単なるひとりの祭司ではないか、そしてこの僕はレビ人ではないのか、もし、ローティがそのような隣人なら、僕には言うべき言葉はない。
 前日、『ラチオ』に関する毎日新聞のコラムを紹介しましたが、同じ誌面にジェレミー・リフキン著『ヨーロピアン・ドリーム』森谷正規の書評が全文アップされていますが、もはやアメリカの時代は終わったのではないか、そして、今ヨーロッパは新しい時代に向けて準備しているのに、アメリカはヨーロッパが生んで引き継いだ近代システムを大成功させたがために、アメリカン・ドリームを捨て去ることが出来得ないのか。
 自律よりも相互扶助が重要でWin&Win(双方勝ち状況)のシステムを構築しないと生き残れないのに、他者を排除する財産権なんかに拘っている。ローティの共和国は近代国家(民族国家)のフレーム内のもので、グローバル化したネットワーク経済に対応しきれない。日本の可能態は「東アジア共同体」なのか、それなのに、靖国問題で首相は“心の問題”と切って捨てる。それでは共同体は無理だと、森谷さんは本書について書いている。