生きるにホームは必要なのか?

 スピルバーグ『ミュンヘン』京都三条MOVIX京都で見ました。土曜日なので、昼間であっても混雑を予想していたのに、余りにも少ない、先日みた『ホテル・ルワンダ』は超満員だったのに、映画的には『ホテル・ルワンダ』の方がエンターティメント性が高い。皆さんに受ける映画なのです。逆にスピルバーグの人気があろうとも見終わった感想は売れる映画ではないなぁと言うこと。むしろ、『ホテル・ルワンダ』の方が売れる映画ですね、それなのに、映画業界は『ホテル・ルワンダ』の上映を躊躇したというのが、本当にわからないですね。『ミュンヘン』はパレスチナイスラエル、世界に対して困難な問題を投げかけている。『ホテル・ルワンダ』は下で書いたようにチョムスキーと違ってアメリカ、西欧は民主主義を守るためには大いに他国に介入しなければならないというリチャード・ローティの処方箋を肯定する映画でもある。
 先月、京都五条で見たパレスチナ人クレイフィとユダヤ人シヴァン共同監督による『ルート181』もそうですが、他者の声を聴こうとする映画なのです。三木富雄の耳(EAR)は何故か左耳の作品ばかりだそうですが、両耳で聴きたいものです。MIYADAI com≪他者(た ち)に出会えなければ「実話」概念には意味がない。他者(たち)が実話を知 っているからだ。だが、多くの「戦争映画」で、我々が出会えるのは、「無害 な他者」(という自分)でしかない。≫と宮台さんは書いているが、『ホテル・ルワンダ』はそのような意味で他者に出会えていないかもしれない、少なくとも『ミュンヘン』は他者の声を聴こうとしている。
  この映画で再三、「ホームレス」という言葉が出る。それは、国家という文脈で、家族という文脈で語られるのですが、「ホームレス」という状況では人は生きられないということが自明とされ、国家であれ、家族であれ、「ホーム」を守るために人は戦うのだとしたら、「戦争はいけないんだよ」と語るだけでは何の解決の糸口にもならない。『ホテル・ルワンダ』にしても『ミュンヘン』にしても『ホームとしての家族』を守るためにと主人公達は言い募るでしょう、それに対して僕は反論出来ないであろう。しかし、敵であれ味方であれ、兵士は最後の核のところでそうやって戦ったのではなかったか、国家/家族を僕達は引き離すことが出来るのか、
 同じ位相で「ホーム」として考えるなら、「ホームレス」になることによってでしか、この世に平和は訪れないのではないか、「出家思想」は宗教を超えて普遍性があるのではないか、出家とはkingさんが言及していた「豊かなホームレス」という文脈なんだろうなぁ…と、沢山の問いを与えられた映画でした。
 映画を見終わって円山公園に行ってみました。春がもうそこまでですね、四条通は相変わらずの人出で、その円山公園を背にして僕より若いホームレスが弁慶のような仁王で真ん中を歩いてやって来ました。雑踏が割れ、有名な甘味処の前に行列が出来ていましたが、そこを通り過ぎて行きました。