どぶ川のモナリザ

 DVDの『どぶ川学級』が図書館にあったので、借りてみました。あまりにもわかりやすく一点の曇りもなさにある種の感動さを覚えました。「どぶ川学級」の物語は「理想の時代」としてのイデオロギーが信じられ、それに対応する貧しさと風景があった。僕にとって懐かしい風景でもあった。目に見える欠如があったから、何が欲しいかが明確であった。とにかく人権を語れば悩みはなかった。生徒達がストレートに主張すれば、ストレートに反応があった。僕も皆も「人間である」ことは自明のこととして了解があったから、人権は当然保障してくれるし人権侵害なんて有り得ないと信じていた。あったら堂々と戦えばいい話で、水戸黄門がみんなから愛されているように、戦う人は世間から拍手喝采されると思っていた。それが多分、1972年ごろからそんな合意は得られなく「理想の時代」はいつしか消えていった。しかし、この「どぶ川学級」は皮肉にも1972年公開ですね。
 今は段々、「人間」であることが自明でなくなったのではないか、その拠所が都合のいいイデオロギーであれ、物語であれ、賞味期限を持ったものなら、当然の道行きである。そうではなくてやはり「大文字の他者」にしろ、「人間である」ことを信じることが出来るものが必要なんであろう、単なる「民主主義」では弱すぎる。それは多分、「ルンペンプロレタリアート」、「野宿者」と呼ばれるような人たちを、それでも受け入れるキャパシティの広い「第三者の審級大文字の他者)」が必要なんであろう。でもそれは常に更新を要請される未完成なもので、未完成だからこそ余白を持ち、リゾームはどこまでも茎を伸ばす。生きることは不安である。でも不安を信じきることでしか、生きられないのではないか、
「どぶ川学級」のある種の感動さはその文脈内での解答であって、文脈の外では通用しなくなる。その意味で「水戸黄門物語」と共通項がある。
 布施英利の『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』(ちくまプリマー新書)にこんなフレーズがありました。

モナリザ」には判断も解決もない。観察して、観察して、更に観察する。あるのはそれだけだ。だから終りのない「謎」がある。そして人間というものも、そうやって見えてくる。描けてくる。現世とはそういうものだ。/ダ・ヴィンチの『モナリザの微笑』ほど、現世的で、現実的で、リアルなものは、他にない。(115〜116頁)

君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか (ちくまプリマー新書)

君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか (ちくまプリマー新書)