働く遊ぶは一葉の裏表

 3月5日付けの朝日新聞宮崎哲弥さんが『「ニート」って言うな!』のレビューを書いていましたね。この本は「ジョブカフェ」に隣接している図書館に寄贈したので、今手元にありませんが、kingさんがブログ『「壁の中」から』で連日ニートについて論考?していますが、宮崎さんの書評タイトル『幻影のような「若者論」にモノ申す』の言うように安易に「メディア世間」で作り上げた幻影の若者を槍玉にあげて火の粉が自分達に向かわないように巧妙に問題のありようをすり替えている。まあ、そんなところでしょう。

彼らの目的の一つは、自らが拠って立ってきた構造(勝ってきたゲームのルール)がもたらす問題を、その構造の側にではなく、構造の問題によって析出された逸脱者自身の努力不足などの内面、心理の問題へと還元することで、構造を温存することだ。

 内面、心理の問題に還元するというkingさんの論考は、確かにそこに説教が生まれますね、?『働かない者は人間ではない(?)――内田樹「不快という貨幣」』で内田さんのブログに言及していますが、内田さんは説教おじさんみたいな物言いになっているかもしれません。労働の問題を贈与の問題に結びつけるのは確かに問題のありようを見えなくさせる。対価以上に働くことで余剰を贈与とみたい心理的な処理の仕方は僕のサラリーマン時代であっても行っていたことは間違いない。ただそれは素朴な勝手な思い込みで、そんな風な確信犯的の振る舞いを身体化しないと、仕事が苦痛になってしまう。事実は搾取されているかもしれないが例え騙されていたとしても、むしろそう思うことの方がみじめだというのがある。
 【A】「自己を供物として捧げること」と【B】「人間は収奪されることのうちに快楽を見いだすことができる」とは全然違う位相だと思う。なぜ内田さんは【A】と【B】がつながっていると思うのか僕にはわかりません。【A】は下で書いたように「大文字の他者」(第三者の審級)につながる快楽(けらく)であり、【B】はメンヘラ的症候を回避するための自己内捏造でしょう。【B】の快楽はビョーキかも。
 働くことと、遊ぶことが全体の一つとして分離出来得ないものなのに、無理矢理分離して「働くこと」を考察すると、頭が痛くなりますね。『遊ばない者は人間ではない』なら、なんとはなしにわかるのですが、