〈私〉でもなく〈公〉でもなく〈共〉か…

 自治会の幹事会に久しぶりに出たのですがえらく、自治会そのものの性格についてラディカルな議論がなされ結構盛り上がりました。40人ぐらいで、幹事を始め各役員の構成ですが、任意団体としての自治会がどこまで各ブロックの会員に対して指導っていうか、お願いっていうか、介入出来るかです。ブロックの数は31で年度入れ替わりの当番制で一年任期で幹事をやるのです。大体、一つのブロックで20〜30世帯の自治会員がいらっしゃる。 しかし、勿論、自治会に加入していない人もいるわけです。そうすると、ゴミ一つにしても非自治会員も同じようにゴミ出しをしているわけですから、ゴミ集積場所の後かたづけなど、そのブロック内での活動は自治会活動というものではなく、あくまで隣近所の〈共〉という作業になるわけです。その場合の幹事さんの立ち位置は自治会員という面と、非自治会員を含めたコミュニティの世話をする面とちょっぴりズレるわけです。
 そのあたりのことで、動きにくい面があると言うわけです。回覧板一つにしたところで、非自治会員には回さない。自治会員と非自治会員とのメリット、デメリットを検証したら、非自治会員の方が幹事にならなくて済むし、だからといって、ゴミ出しが出来なくなるわけではないし、会費も払わなくていいし、そんなところで、かって700世帯あった自治会員数が今では640世帯なのです。この地域の人口は増えているはずです。
 だからと言って、自治会として積極的に会員勧誘をしているわけではない、あくまでそのブロックの幹事さんが新しく引っ越しした人がいたら一応声をかける。でも、個人情報保護法のからみで名前(姓だけ)と住所だけはなんとかなりますが、電話番号を教えてくれないところもあります。結局、かような日々の暮らしの場において〈公〉という行政が自治会に行政の一部丸投げをしているように見られ期待され、積極的に指導力を発揮して欲しいとの要望がどうしても幹事さんからあるのです。
 だが、自治会の三役はそのような強制は出来ない、あくまで、幹事さんがそのブロック内での日常のつきあいの中で、情を交歓し、仲良くやってもらうしかない。町内会コミュニティって、なんだろうと考えると、共同体とも違う、勿論、〈私〉でも〈公〉でもない。それは〈共〉ではないか、とふと思いました。まあ、ネグリ&ハートの『マルチチュード』の感化でもあるのですが、でも、『マルチチュード』の〈共〉は、今住んでいる両隣とのつきあいから始まり、生まれる何かだろうなぁ…という予感がします。

 <共>にもとづく法的戦略
 この状況を理解するにはヽ術語の使い方によって生じた混乱を解消することが必要である。〈私〉という語は社会的主体の権利や自由だけでなく、私的に所有する権利も含むと理解されており、その結果両者の区別は曖昧になっている。この混乱は近代法理論、とりわけその英米版における所有的個人主義゛というイデオロギー`に起囚する。これは利害関心や欲望から魂にいたるまでの主体のすべての側面や属性を、その個人が所有する「所有物」と位置づけ、主体のもつあらゆる側面を経済的領域に押し込めようとする立場である。こうして〈私〉の概念は、主体的なものも物質的なものも含めて人間のあらゆる「持ち物」を十把一からげにしてしまうのだ。一方の〈公〉もまた、国家による管理と、〈共〉として維持され〈共〉によって管理運営されるものとの重要な区別を曖昧にしてしまう。
 だからこそ私たちは、これに代わるオルタナティヴな法的戦略と枠組みーーすなわち、さまざまな社会的主体性の特異性(私的所有権ではなく)を表現する<私>の構想と、(国家による管理ではなく)〈共〉にもとづいた〈公〉の構想ーー言ってみればポスト自由主義的かつポスト社会主義的な法理論を考え出す必要がある。〈私〉と〈公〉に関する従来の法的構想では到底その役目を果たせない。
 私たちが知るかぎり、特異性と〈共〉性にもとづく現代の法理論の最良の例は、「ポストシステム論」と呼ばれる学派である。この理論はきわめて専門的な術語を用いながら、法システムを複数の下位システムーーその一つひとつの下位システムは数多くの私的な(もっと正確に言えば特異な)体制の規範を組織化するものであるーーからなる透明で民主的な自己組織化ネットワークとして明確に描き出す。これは法や規範の生産に関する分子的な概念構成であり、その基盤は、私たちの言葉でいうさまざまな特異性問の恒常的かつ自由でオープンな相互作用に置かれている。この相互作用はまた、これらの特質性問のコミユニケーションをとおして〈共〉的規範を生産するものだ。特異性の権利という概念は、先に論じた行為遂行性という倫理的概念を表現したものと考えればわかりやすいかもしれない。すなわち、特異性の権利は社会的コミユニケーーションのなかで〈共〉によって生み出され、さらに〈共〉を生み出しもするのである。だがここで指摘しておくべきなのは、この特質性の権利という概念が〈共〉にもとづくものであつからといって、「共同体主義的」な概念であるわけではなく、またいかなる形でも共同体の指図を受けるものではないという点だ。共同体という語は、住民や住民の相互作用の上にさながら主権権力のように屹立する道徳的統一体を指す言葉としてしばしば使われる。だが〈共〉は伝統的概念としての共同体も公衆も意味しない。それはさまざまの特異性間のコミュニケーションにもとづき、協同的な社会的生産プロセスを通じて現れるものである。個が共同体の統一性のなかに溶解してしまうのに対し、特異性は〈共〉によって減じられることなく、〈共〉のなかで自由に自己を表現するのだ。(36頁〜38頁)

 まさに、自治会員も非自治会員もこの街に暮らしている人々は共同体の統一性のなかに溶解しない特異性という何者ものかなのでしょう。<私>でもなく、<公>でもない、