男性問題のバックラッシュ??

弱者男性にとっての最大の武器は「教養」です。教養(想像力)に加えてサムマネーと度胸があれば、強者になれると、カーネギーさんあたりは言っていますが、少なくとも僕は「ちっちゃな教養らしきもの」しか持ち合わせがない、だから弱者かもしれないが、「教養人」に対してはリスペクトする。ルサンチマンの怨念で「知に対するバックラッシュ」だけはやろうとは思わない。学ぶことでしか道はないのです。
参照:最後の拠り所は教養の力 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」
 某図書館で棚を眺めていたら、ジェンダージェンダーフリーフェミニズム男女共同参画、女性学、女性問題…と細かいカテゴリーが沢山あって、その分類の境界線を司書の方はどのように把握しているのか、難しいなぁ…と、ひとりごちしながら、それはそうと「男性問題」なんてあるのかなぁ…と目で追ってみたが、「中高年齢問題」、「老人問題」はあっても何故か「男性問題」がない、*1どうして、そんな問題意識を持ち始めたのかというと、「去勢」による療法によって「玉取手術」をしてもやはりジェンダーとして男であるだろうということです。でもそう思わない人もいる、知人で前立腺癌になって「玉取り」も「内分泌療法」も拒否して、「男をやめるくらいなら死んだ方がましだ!」と高言して治療を拒否して亡くなった人がいる。詳細は知らないけれど、某映画監督も手術を拒否しましたね、『バックラッシュ!』の最終章の最終項で、上野千鶴子さんはぐさりと「男性問題」を鷲掴みにする。

ヘテロセクシズムと対幻想は、男の思想だと、斎藤環さんがはっきりと言いました。卓見だと思います。男がつくりあげた思想のなかで、それが遂行できない男の負け感は、女よりずっと強いはず。対幻想とヘテロセクシズムは男がつくった装置だから、「負け犬」と呼んでみずからの負けを、父権的なイデオロギーのもとで認める女たちは、去勢コンプレックスを持っていると、斎藤さんは『家族の痕跡』(筑摩書房、2006年)のなかで書きました。そして、酒井順子らをペニス羨望(「男のようになりたい女」を指すフロイトの用語)の女たちだと分析します。男の価値を内面化するからこそ、負けを自認するのだ、と。
 斎藤さんの議論に対する私の反論はこうです。「負け犬」は、ギャグでありパロディである。彼女らには、みずからをパロディ化できるだけの支配的な価値への距離がある。それにくらべると、人口的には負け犬の女と同数以上存在する彼女らと同世代の男たちから、「負け犬」論が出てこないのは、彼らには負けを認めることができないくらいに、抑圧が強い証拠だということになります。(431頁)

 病棟の同じ階層では前立腺癌の人が大多数でしたが、患者同士が時々情報交換した。その最大の関心どころが「玉を取るか取らないか」であった。治療コストから言えば、「玉取」は一回の手術で済むから安い。それを回避して内分泌療法を選択すれば、いつまでも高価なホルモン注射を打ち続けなくてはいけない。保険の対象になるからと言っても積み重なれば高級車が買える注射代になるだろう。日本以外の諸外国では保険の関係もあって殆どの患者が「玉取」を選択するとのこと。二択の選択肢で、僕は内分泌療法を選択してしまった。隣のベットの患者に「玉取手術」を薦めたのにもかかわらず、何で玉取をしなかったのかと、今では後悔(ホント!)しているのですが、「玉取れば男でなくなるという抑圧」がストレートに働いたことも事実でしょう。そんなことをアイロニーを込めて言っていても、こと自分のことになると、形だけでもちゃんと袋があって玉がある状態を維持したかったのです。玉を取った隣の患者は執刀医に自分の「金の玉、二発」を見せてもらい、記念にお持ち帰り致しますかと、言われたが、そんなもん、イラナイ!と断ったとのこと。袋はついているしシリコンでもパチンコの玉でも入れておいてもいいのだから、本人以外は誰も頓着しない取るに足らない事柄なのですが、もはや内実は空洞だと、なかなか達観できないのですね。現実の虚構化が身にしみるのです。だから、僕は玉を保存しました。空っぽであろうと、象徴としての何らかの支えになっているみたい。

 女についてはもっとあからさまに、男に認められることが女の価値だといわれてきました。それに対してフェミニズムは、「男に選ばれようと選ばれまいと、私は私」という装置を提供してきた。「私の価値は私が決める。男に選ばれることによって、私の価値は決まらない」フェミニズムは、そのように女の自己解放のために思想を鍛えてきたわけです。いま、そのような自己解放のシステムを、男がつくれるのかどうかが問われています。(432頁)

 僕の場合は結果として欲望濃度が殆どゼロで、別に欲望自体を放棄しなくても、ヘテロセクシズムの装置から降りているわけで、上野さんがカリカチュアして書いていますが、

しかし、そこから降りた男を、ほかの男が男として認めようとしません。最終的に、男が男であることを誰がギャランティしているかといえば、女じゃなくて、ホモソーシャルな男同士の共同体だといえます。この装置からいかに逃れられるかということは、男自身、そして男同士の問題であって、女の問題ではありません。私にいわせれば、「自分で考えろ」ということになります。(433頁) 

 上野千鶴子の口舌は小気味がいい、びんびんラッシュします。
 本書『バックラッシュ!』はジェンダーフリーについての考察ですが、上野さんの最終章『バックラッシュを乗り越えるために』を最初に読んだ方がわかりやすいみたいですね、『不安なオトコたちの奇妙な<連帯>』(378頁)で「ジェンダーフリー・バッシングの背景をめぐって」とてもスリリングにわかりやすく問題の有り様を抽出してくれています。最後に上野さんが石投げした女性問題でなく男性問題は直裁に受け取って考えるべき問題でしょう。少なくとも僕には大事な問題だという認識はあります。

 男については恋愛弱者とか性的弱者とか言いますが、女についてはそう言いません。「恋愛」という美名に隠れていますが、「女を所有(モノに)する」ことは男であることの証明でありつづけてきたから、男がこれ以上、女に依存しないで自分を肯定できるかどうかが問われているのでしょうね。これは女性問題ではなく、男性問題なんです。

本書の結語が男性問題だとは悩みが倍加する本ですね。男は男らしく、女は女らしく、互いに依存しないで、徹底すること、それがジェンダーフリーなのでしょうか、女性問題、男性問題に共通であって、勿論、ジェンダーは男でもあり女でもある。男女平等、あたりまえだなぁ…、この問題はこれからの僕の宿題です。ジェンダー・フリーは別に女性問題だけのことではなくて、『「弱者」男性問題』として考察する方が身につまされるし、僕の実感を込めて、少しはまっとうなことが言えるかもしれないなぁ…、とぼんやりと考えていたら、icikinさんがコメント欄で赤木さんのブログを紹介してくれました。→深夜のシマネコBlog: 『バックラッシュ!』を非難する
参照:『バックラッシュ!』に関する議論、いろいろ - 双風亭日乗はてな出張所
双風舎さん、『男のためのジェンダーフリーという本があってもいいですよね、男を男から解放する、女を女から解放する、そのことが前提で男は男らしく、女は女らしくと考えているのは上野さんではないでしょうか、
http://diary.jp.aol.com/applet/e6byjzsbqarf/20060708/archive〝このジェンダー化する世界〟
養ってくれるお嫁さん募集 - フリーターが語る渡り奉公人事情

バックラッシュ!
上野 千鶴子〔ほか著〕 / 双風舎編集部編
双風舎 (2006.7)
通常24時間以内に発送します。

*1:コメント欄で司書のぴぴさんから’95年から日本十進分類法で新しく男性問題の分類が追加されたとのことです。367.5です。