かって、「人間は犬に食われるほど自由」だったのに…。

ある料理人の遊戯

 生命倫理の問題として、田口ランディさんが『子猫を殺すこと』をエントリーしています。前日のコメント欄に書いたことなんですが、今日、病院に行った待ち時間に院内の図書館で、日経夕刊に連載された坂東真砂子さんのコラムを読みました。やはり、?『子猫殺し』だけの記事を読むのではなく、全体の流れを読みたかったのです。七つのコラムになっていますね、
 時系列になっていませんが、(てるてるさんが、時系列で整理しています。僕は八回目(8/25)は読んでいません)他の六編のタイトルを僕が読んだ順番に掲載すると、?『魚市場の女呪術師』?『風の明暗をたどる(山頭火)』?『付喪神のいる島』?『天の邪鬼タマ』?『肉と獣の距離』?『生と死の実感』です。*1
 ?は魚市場での坂東さんの歩き方がいかにも日本人一般の歩き方、暴走機関車的なので、地元のポリネシア人の漁師さんたちが、「来た来た、女呪術師だ」という噂が流れたらしい。ポリネシア人の歩き方は、リラックスして魚が泳ぐように、すらりすらりと歩くらしい。日本人は一度暴走したら軌道修正がきかない。それは、ヤバイ!常に軌道修正出来る柔らかい発想をもとうではないかと、書いているのです。
 ?は種田山頭火を思い出しながら「漂泊」と「放浪」について考えるのです。現代はすべての土地に所有者がいる。特に都市の漂泊者はゴミとしか見られない、放浪者として排除される。どこに漂泊の場所があるのか、
 ?島の谷や山を歩くのが作家の日課なのですが、時々奇妙なものが動いているのに遭遇する。ヤドカリが自分の身体の成長に合わせてガラス瓶だとか、蓋を宿として利用しているのです。しかし、ヤドカリだけではなかった。地元の人も大きなゴミ袋に穴を開けてレインコート替わりにしている。モノは多様な役目を果たす。長年使われて、棄てられた道具類は妖怪となる。それが付喪神なのです。
 ?猫でなく犬の話です。犬も三匹飼っているのです。「真似る」と「学ぶ」は違うのであって、瓜子姫の天の邪鬼心理は「文化」なんてものでなくて、単なる「真似っこ」に過ぎないのではないか、愛犬のタマと変わらない。
 ?作者は「人は、自分が殺せる範囲の生き物を食べるべきではないか」とメセージする。その生き者を殺す仕事は他者に預け、《殺しにまつわる精神的葛藤をぴょんと飛びこして、店で売られている肉を、まるでこの世に突然、現れた食べ物であるかのように口にするのは、どこか間違っている。》
 ?タヒチでは様々な生き物の死骸を目にする。それから?の『子猫殺し』につながるのです。 
 僕は藤原新也さんの記念碑的な写真『人間は犬に食われるほど自由だ』を想起する。

 ある日の夕刻、彼はガンジス川無人の中州に立ち、遠くに犬の群がるのを見ていた。砂州の淵に流れ着いた水葬死体を犬の群れが食べている光景だった。砂州の中で彼は自分も襲われるのではないかと殺気を感じた。しかしさらに近づき息を詰め、まるであの世のようなありさまをじっと見つづける。しばらくして彼は自分の心の状態が変化しはじめるのに気づく。経験したことのないような安らかな気分が彼を包み込んだ。ー『藤原新也の聖地』よりー

 参照:◆坂東真砂子さんのエッセー全文を読もう! てるてる日記/ウェブリブログ
「坂東真砂子掲示板」より てるてる日記/ウェブリブログ
そこに空地があるから てるてる日記/ウェブリブログ
風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜
保坂和志『「生」の外には出られない』http://web.soshisha.com/archives/world/2006_0831.php
 僕はちょいと↓のコメントで触れましたが?の問題は「脳死と臓器移植の問題」につながると思う。