リサイクル本花田清輝


 図書館のリサイクルで岩波書店永井荷風全集』(全28卷)と、でも、端本が17冊ですが、未来社の『花田清輝著作集』?、?、?巻、単行本は山本七平著『一下級将校の見た帝国陸軍』(朝日新聞)、藤原新也の『沈思彷徨』(筑摩書房)を頂戴しました。昔持っていた本もあるのですが、処分しているわけで、懐かしさのあまり、もらってきたというわけです。
 特にこの未来社版の花田清輝著作集は愛読していたものだったのですが、古書店に売ったもので、結構高値で取ってくれた記憶があります。?巻に収録の『胆大小心録』から偶然めくった「スター意識について」読んでみる。

 たとえば『羅生門』の強盗が、どうです、立派なもんでしょう、と片手にもった抜き身の刀を高くかかげて相い手にみせながら、もう一方の手で、裸の肩にとまった蚊をピシャリとたたきつぶす場面など、日本人の剽悍さ、狡猾さ、野蛮さが集中的に表現されており、おそらく強盗に扮した三船敏郎は、「国民の象徴」として、天皇なんか足もとにもよりつけないような強烈な印象を外国人にたいしてあたえたにちがいない。
 かつてアポリネールは、アルチストとは果してなんであるか、と自問して、要するにそれはエクランに登場する男優と女優のことだ、と自答したが、モれ以後、映画スターたちは、声を獲得し、色彩を身につけ、画面の拡大化につれて、いよいよ巨大な存在になってしまった。編集者は、この国民の象徴であると同時にアルチストの象徴でもある映画スターを、おもいきりやっつけてもらいたいとわたしにいうのだがーーしかし、戦後間もなく、アルチスト・アルチザン論争というのをやって、アルチストの肩をもち、アルチザンをさんざんコキおろしたことのあるわたしは、いまさら豹変して、攻守ところをかえるという気にはどうしてもなれない。したがって、書くということになれば、いきおい、自己批判というかたちとることになるだろう、などというと、チェッ、スター気どりでいやがらァ、と反感をもつ向きもあるにちがいないが、いかにも、わたしにも、まったくスター意識がないとはいえない。
 これは、一つにはわたしの名前からきているのだろう。たしか佐藤春夫の詩に「きよく、かがやかに、たかく、ただひとりに、なんじ星のごとく」というのがあったが、あの詩にはじめて接したとき、ハハア、これはわたしのことをいってるんだな、とわたしはおもった。ーーといったような調子で、アルチストの素質のあるものは、つねに自己宣伝の機会を逸するようなことはない。
 もうニ、三年前のことだがーーいや、もっとになるかもしれないが、なにかの座談会で、はじめて河上徹太郎に会ったとき、どこかでたしかにみたことのある顔だとおもって、つくづく思案していたら、なんのことはない、それはつい二、三日前、エクランで対面した島田正吾の顔だということがわかった。そこでその旨をつたえたところヽ河上徹太郎は、ご冗談でしょうとかなんとかつぶやきながら、すっかりテレたような表情になった。わたしは、そういうかれの様子をながめながら、ああ、このひとは、名バイプレヤーにはなれるかもしれないが、スターにはぜったいになれないひとだな、と感じた。スターは決してテレないのである。そこへいくと、わたしなんかのほうがはるかにずうずうしい。
 ちょうどおなじころ、わたしは、藤川栄子から、『紀元前百万年』の主人公のヴィクター・マチュアはあなたにそっくりだったのでおどろいた、といったような趣旨の葉書をもらったが、いささかもテレなかった。もっとも鏡にうつったわたしの顔にはどこにもそれらしいところはなかったがーーしかし、わたしの眼よりも、画家の眼のほうを信用したほうが無難だろうと考え、爾来そのつもりでいたところ、その後、梅崎春生が、きみは『パリの空の下セーヌは流れる』に出てくる変質者の殺人狂に瓜二つだといいだしたのにはガッカリした。(P308続く…)

 出足だけを引用しましたが、やっぱり、おもしろい、6頁のコラムなので、続きは又引用してもいいです。これから今日も図書館を覗いてみます。