アイロニーな啓蒙家お二人、

支配なき公共性―デリダ・灰・複数性インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門 [ソフトバンク新書]偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性
 村人さんのブログで紹介されていた白田秀彰さんの『ほんとうの知的財産戦略について』のテキストを読んだのですが本当に面白かったです。かような啓蒙家はなくてはならぬ存在ですが、僕のような年寄りが読んでも白田さん、喜ばないだろうなぁ…、若い人に読んでもらいたいものです。東浩紀さんの道、それとも白田さんの美しい?道を選ぶか、さ〜あ〜て、どちらなのでしょうか、恐らくそれは僕の死後の道であろうけれど、もっとも低コストで、風通し良く共有できるものは「知」であろう。議会制民主主義政体と自由主義経済体制が最適なシステムとしたら、それを支える知的財産制度をクールに検証すべきでしょう。二階建ての保護制度は「再版維持制度」との組み合わせで具体的な立案が出来ますね。
 武田さんの『NHK問題』も読みましたが、武田さんもかけがえのない啓蒙家ですね、勿論、白田さんも武田さんもアイロニストという前提がある。そうでない単なる啓蒙家では鼻白むだけです。

 デリダの死去に際して書かれたその言葉はまるで遺言のように残して、ほとんど間をおかずに梅木達郎もデリダのあとを追った。しかし、そのことばは二人の死後も重く残っていると感じる。
 支配せず、支配されない立場をいかにとろうとするのか。それこそ「n人の犠牲はm人の幸福のためにやむをえない」という、公共的なようで実は共同性しか擁護していない発想から逃れようとする決意表明でもある。
 ジャーナリズムは苛まれた人たちを発見し、その声を報じようとする。しかし、そこには状況認識の間違いがあるかもしれない。その報道に応じて政策が決定されれば、n人の犠牲の下にm人を助ける結果になるかもしれない。そこでn人の犠牲を出さずに済む方法はないか検討するためにあらためて報道を続ける。それが反照的均衡を探る報道だ。そしてそれは最初のものの見方をずらしてゆくリベラル・アイロニーのあり方でもある。(略)
 先導的な公共放送とは、まさにそうしたリベラル・アイロニーを支えるものであるべきではないか。アイロニーというと、シニシズムとの関連で解釈されることが多い。何も生むことのない悪ふざけという印象がある。
 たとえば本書でも「ずれ」てゆくアイロニスト三木鶏郎を紹介した。三木は日本のテレビ黎明期に『日曜娯楽版』で一世を風靡し、その後、コマーシャルに身を転じたという紹介のされ方はあるが、あくまでも芸達者なクリエイターとしてしか評価されていない。しかしアイロニーには可能性と希望がある。三木の態度も、ローティの言うリベラル・アイロニーと地続きなのだ。
 そして、それは私たちにはすでになじみのある、嘘言を内包する「委員会の論理」や可謬主義とも同じ地平で理解されるべきものなのだろう。ジャーナリズムが自らの論理に固着しないためにあえて己の信じるものをずらしてゆく。「論理の自己疎外」から逃れるために、疑いようもなく思える確信をゆるがす嘘言をあえて選んでみる。それらはいずれも「支配せず、支配されない」公共性の形成に向けて、「反照的均衡」を求めてゆく行為の連関なのだ。(229〜230頁)

 やっぱし、「知」が公共性へと通じる道でしょう。それしかない。

 基本財を欠く人の存在を伝え、そんな社会の歪みを報道に報道を重ねることで検証、検討する。そんな反照的均衡を目指していくプロセスの結果として本当に社会的に助けられるべきだと広く同意できる不遇な人の存在が知られることになれば、それこそジャーナリズムは公共的に機能したことになる。(223頁)