家畜人元年にならないために

 ソネさんの『うたかたの日々』より、『現代思想 12月号』より「分類の拒否」堅田香緒里+山森亮の論考からの孫引用。問題はこのような「ベーシック・インカム」はA層の富裕層だけに痛みを突きつけるのではなく、B層(安定層)にも痛みを伴う政治だという認識が必要でしょうね。そうでないと、「ベーシック・インカム宣言」がC層(不安定貧困層)を前衛にして、単にB層がA層より分け前を掠め取るための方便として利用される。なにはともあれ、宣言文自体はとてもマットウです。本年の巻頭に相応しい言葉ですね。

ベーシック・インカム宣言」
人の命は大事だと誰もがいう。であるなら、お金が無いために人の命が奪われることはあってはならない。そうした合意の上に、社会権憲法二十五条だとか、福祉国家というものが築かれたはずだった。ところが実際に行われたことは、人の命の等級付けであり、低く見積もられた命の廃棄であった。そうした分類の政治、廃棄の政治を拒否する。当たり前の、本当に慎ましい要求は、ベーシック・インカムである。全ての人が、その生を営むのに必要なお金を無条件で保障されなくてはならない。生きていくことは支払われることに値する。市民としての義務は、生きることが保障されなくては、果たしようがない。「衣食足りて礼節を知る」とはそういうことだ。−略−これまで分け前を用意されてこなかった、非正規労働者も、野宿者も、学生も、女も、子どもも、外国人も、ベーシック・インカムを当たり前に要求してゆくこと、分け前なき者がその分け前を登録し、そこに不和を生じさせること。ベーシック・インカムの要求は、それゆえに、政治を私たちの手に取り戻すことなのである。

 恐らくそれは武田徹オンライン日記でアップされている1月2日の記事「人間の条件」につながるのだろう。この国の身近に南北問題があるのに、見えない存在としてマスメディアの網の目からこぼれ落ちる。そのような隙間をフォーカスしようとした側面も武田さんの新刊『NHK問題』にはあるのだなぁと、そのことと赤木智弘さんの論座デビューを繋げて記事をアップしているのですが、僕自身、赤木さんのことを完全に理解しているかどうかは心許ない。ただ赤木さんの論考には荒っぽいものがありすぎ、論理的破綻を指摘することが僕なんかより知的武装している論壇人、その予備軍からすれば、「アホ」の一言で片付けられるかもしれないが、そのような振る舞いでは、赤木さんがあえて指し示そうとする切実な問題(それは、この国だけの問題ではなく、国境を越えた問題でもあるのだが…)に結局、目をそむけることになるのではないか?

「徴」はスティグマという意味で否定的に使われてきたが、そのあり方は情報化の中で微妙に揺れている。「徴」なしには親密圏を越えて活動が出来ない。親密圏では経済活動がありえないので、経済的資源を外部から調達しなければならないが、情報活動で対価を得ようとしたらそれには今や「徴」がいる。差別される「徴」も、ブランドという「徴」もそうした情報機能的な位置づけでは同質になる(宿泊拒否された元ハンセン病者に2ちゃんねらールサンチマンを持った経緯などを見れば分かることだ)。
 そう考えると赤木くんが仮想敵としたものの性格が見えてくるのではないか。徴なきものを見捨て殺す社会。そして自分が見捨てられる側にいるのかそうではないのかも、よくよく考えてみると自分の思っていたものと違ってくるのではないか。
 ただ・・・・、そうした図式はやはりわかりにくいのだろうなとも思う。絶望せずに一応ここはバイト「でも」やるかと、そこそこ器用に生きてこられた程度にアタマのいいひとほど分からないのかもしれない。自分がバイト「しか」出来ないと気づけない。たとえ運良く就職できてもその生き様はバイト以上でも以下でもない状況にあることに気づけない。赤木くんとジャーナリストコースで同期で、まさに彼の活動を間近に見てきた連中だって、赤木くんが何と闘っているかおそらく分かっていなかっただろう。彼らだけでなく殆どが自分が人間なのか、人間であるような夢を見ている家畜なのか分からないでいる。そして知らないうちに彼を殺す側、実は自分をも殺す側の拡大再生産を忠実な家畜よろしく支えているのであり、身近な人間ですらそうでしかないところが赤木くんが相手にしている問題の深刻さを示している。

 武田さんの言葉は痛すぎます。存在しないことになっている存在をジャーナリズムこそ見よ、せめてそのようなミッションを個々のジャーナリストが持つための環境設定はマスメディアの使命だと思うのですが、困難な課題なのでしょうか。ただ、赤木さんのように自分の実存と制度の問題を意識化して語るやり方は間違っていないと思いますね。