ひきこもり/親の家出

オンライン書店ビーケーワン:「ひきこもり」だった僕から
 今年は、赤木さんが提示している「現代の貧困問題」、上山さんが暗中模索している「ひきこもり問題」について意識的に学習したいと思う。その通底に「最早、人間として生きることが許されないのか」というラディカルな問いがある。それは森岡正博さんの「無痛文明論」、東浩紀の「家畜化」にもつながるのですが、僕の中のどこかに、「工学的家畜人の一人」として主意的に選択もありかと思うのですが、そういう決断も必然のなせる業かもしれない、そんな行ったり来たりで、常に軸足を変える歩き方しかないのかなぁと、思ったりもします。

 親子間の消耗戦的な癒着関係をなんとかしようということで、「親が子を置いて家を出てしまう」というケースもよく聞きます。これがいいか悪いかは、一般論としてはなんとも言えないと思いますが。思いきって家を出て、うまくいったケースも聞きますが、逆も聞きます。ケースバイケース、としか言いようがない。
 ただ、「親の頭の中が子どもの問題でいっぱいになっている」というのは、悪い影響しか持たない気がします。私はそうでしたが、当事者は、案外、家族に対して自分がかけている負担や迷惑のために、罪悪感でいっぱいになっている。「加害者感情」でものすごく苦しんでいたりする。そういうジレンマから、少し解放してくれるのではないでしょうか。「親が勝手に自分の人生をはじめる」というのは。
 問題はしかし、実は「親子」の部分にあるのではなくて、やはり「つながっていきたいと思えるような第三者との出会いがない」ということなんですけどね……。そういうつながりが生まれれば、親と一緒にいつづけよう、などとは思わないと思います。だって、苦しくて仕方がないですから。ー上山和樹著『「ひきこもり」だった僕から』より167頁ー

 その第三者との出会いがキーワードであるけれど、臆病であって構わない、匿名でも最初はWEB発信によって触手をを伸ばしてくれれば、そのちょいとした兆しが欲望の増殖をはかり、他者(第三者)にフックをかける関係性が生まれるかも知れない。