ネットラジオで♪ふらふらフラフープ♪

オンライン書店ビーケーワン:集中講義!日本の現代思想シェイプアップ リング
 youtubeもさることながら、丸激トークを始めネット視聴をよくするようになりましたね<。『オールニートニッポン』で、田口ランディさんや、上山和樹さんの三時間近いトークも聴いたし、ネットラジオにもハマリだしました。粗ゴミで捨てようと思っていたカセット・テープが一杯あったので、再利用ということで、テープに録音(古い!)してウォークマンで聴くことにしました。
 今時、カセットで聴くなんて「原始人」のような気分にもなりますが、音楽を聴くわけではないし、二、三度聴くと、イカレテしまうほどの古いテープを使用しているのですが、操作も簡単だし、気楽ですね。でも、本当に、一、二度の再生でテープが伸びてしまって使いものにならなくなったものがありました。何せ、何十年前のテープもありますから…。
 それはそうと、武田徹さんも赤木さん、粥川さんらと、ネットラジオを企画していますね。オンライン日記の1月10号に掲載されていました。

jounalism.jpのコンテンツの一つとしてネットラジオを加えるべく、赤木君と粥川さんに頼んで出演して貰い、先端研で実験的に収録してみた。機材はマイクと小さなICレコーダーのみの軽装備。経費はかけない主義なのだ。制作も、たとえば編集でコストをかけたり、人手があまりにかかるようだと続かなくなるのでほぼ生で流そうと考えている。……

 期待しています。
赤木さんがブログで立ち位置を明確にアナウンスしていますね。

確かに、「戦争への道」は間違いに違いありません。
 しかし、ならば「不利益配分を団塊ジュニア世代にのみ押しつける現状」とやらが正しいかといえば、これもまったく正しくないのです。
 私の苛立ちは、前者の間違いに対しては執拗に抗う人たちが、後者の間違い、すなわち我々の苦境に対して完全に目を背けていることに対してのものです。
 さらには、その人たちこそが、積極的に団塊ジュニアに不利益を押しつけている疑いすらあります。
 組織的な労働運動が既存の労働者を守るために、我々のような別種の労働者を踏み台にしている疑いです。
 戦争に反対する前に、その人たちはこの疑いを晴らす、もしくは改善する責務を負っているハズなのです。
 しかし、そのことを無視し続けるならば、彼らがその「愛国」的でない言動をもって、特高に捕まり、その人権をはく奪される時に、我々は彼らから視線を背け、決して省みることは無いでしょう。それこそ、現在彼らが我々に対してしているのとまったく同じように。
 そうならないためにも、あなた方は、今すぐに現状の間違いを正すことを考えてください。
 後者の間違いを正すことこそが、前者の間違いを正すことなのです
http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/01/post_184.htmlーより

 ひょっとして、僕も攻撃のターゲットになるかもしれないけれど、いまだに何十年もフリーターを続けている僕の知人の老フリーターたちに赤木さんのメッセージをどのように受け取るのか聞きたいものです。今日から読み始めた仲正昌樹の『集中講義!日本の現代思想』(NHKブックス)の序にこんなことが書いてあった。

 80年代後半に生じたバブル経済が90年代初期にはじけた後、不況が長期化する中で、近代的な労働主体=市民としての安定したアイデンティティを放棄し、ふらふらとあちこちをさ迷いながら、フリーター的な生き方を好む?ポストモダン的な人間?が、希望の星には見えなくなった。自ら進んでフリーター的な生き方をしているというよりは、不況のせいで仕方なくフリーターとしての道を選択せざるを得ない人のほうが多くなったせいで、ポストモダン的にふらふらし続けることが、いいことだとは思えなくなったのである。簡単に言うと、社会に余裕がなくなったわけである。(p20)

 ふらふらすることが大好きな僕も、そうは言っていられない状況かもしれないが、ふらふらすることにこだわってゆきたいとは思いますよ。
 ★平等か生存か
 追記:このエントリーに「の」さんがトラバしてくれまして、『こちらを』訪問したらとても示唆にとむ『赤木智弘論考』になっている。赤木さんのテクストも上手にまとめてくれている。ぐちゃぐちゃになりかけた脳内が少しは整理されました。そんで、思わず、こんなコメントを書いてしまいました。

トラバありがとう!読んで、色々と啓発されました。
赤木さんに対する目がクールでありながら、暖かい、
僕は思わず、かような抑制された語り口で、赤木さんを批評する方はどんな方なんだろうかと思いましたよ。
孫世代なんですね、びっくりしました。
まあ、ジジィが孫に教わるっていうことは良くありますから(笑)。
このエントリーを僕の本文に紹介したします。
今後ともなにとぞよろしくお願いします。
世の中が不平等であっても、僕の生存が社会的にちゃんと確保出来るシステムがあれば、心おきなくふらふら出来るというものです。最優先はまず「生存」
やる気のある奴ががむしゃらに働いてそれ相応の報酬をもらうのは、大賛成ですよ。
でも、そうやって一生懸命に働いている傍で日が昇り、日が沈む、その間、唄って過ごす奴がいたっていい、
僕の過去のエントリーにも書いたことがあるのですが、考古学者の話でエジプトで発掘作業を行った時、その仕事を村の長に頼んだのです。そうすると、村人たちが働いている傍らで一人の若者が仕事をしないで、一日中、歌を唄っている。そんで、学者が村長にみんなにしめしがつかないんではないかと苦情を言ったら、村長が、いやいいんだ、彼は歌を唄うことで、この作業に花を添えている。
結果として全体の生産性をあげているわけですよ。
赤木さんと「豊かさ」についてやりとりしたことがあるのですが、そのような「ふらふらする人」がリスペクト(少なくとも忌避されていない)されている共同体は少なくとも「豊か」であるわけですよ。
僕たちが若い頃は少なくともそんな合意がありました。(フーテンが恰好よかったのです)
でも、今はフリーターは「危ない存在」としてリスペクトどころか、白い目で見られる。
それを実存的に「貧しい社会」と見ているわけです。僕はせめて、カネがなくとも、イエがなくとも、そんなアジールな人びと、放浪者、出家者を社会がなんとなくリスペクトする基盤があれば、表層として不平等が巷に溢れていても、そのような人生模様を楽しむことが出来る。僕はそんな社会を望みますね。
ユートピア社会と理不尽な社会とどちらが棲み易いかと考えると「ユートピア」って言えないものが残る。その残余を大事にしたいと思う。そこに生きる歓びがあるような気がするのです。

 こちらに貼り付けると編集もしやすいですからね、一応、かようなコメントをしましたが、又、書き足したり修正するかもしれません。
 トラバされたエントリーはこちらです。http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061207/p1