キリギリスの「いのち」

 メルさんの「恵まれた」人間は、社会批判をする資格がないのだろうか 」というエントリーは昔から言われ続けていることですが、今でもその問いは残っていますね。恵まれ度のスケール自体も単純ではない、単に所得で図れる数値なら何とか計測出来ますが、その数値も恵まれた数値と第三者からカウントされても、本人は恵まれていないと思っている場合の方が多いでしょう。年収一千万円でも不満たらたらの人はいますし、そんなことを言っても仕方がないので、粗っぽく僕のことを書くしかない。
 自分の身の丈に合わない事柄に対して沈黙を守るか、身の丈以上のことであっても、積極的に社会批判をしてゆくべきか、僕としては自分の身体感覚を揺り動かす事柄に対して身体反応として、そのような社会批判にかかわるという言葉と身体の境界線に位置すると言っても、言葉と身体は腑分け出来るものではないから、見えないものも取り込んだ「言葉にならない僕」が予測不可能な行動を含めた身体反応としての社会批判に結果としてなると言った案配で、時評家のように社会批判の対象になるようなものを鵜の目鷹の目でアンテナを拡げているわけではないのは勿論のこと、日常の運動として、政治家、アクティビストになろうとしているわけではない。
 でも、やるときはやる、と言った決然たるものは秘めてはおこうと思う。でも、それも、僕のように失うものが殆どないものは、簡単に言えるかもしれないが、失うものが沢山ある人は「そうはいかない」だろうとは思う。その限りに於いて同情はしている。
 富裕であることが、重い荷物を背負うことなら、僕は殆どゼロに近い荷物で生きられるならそちらを選択するということです。だって、僕の知る限り、羨ましいと思った富裕(A)層はいないし、B層にしたところで、その火宅ぶりにお目にかかるから、生存権さえ確保されるなら、軽い荷物で自由気ままに暮らしてゆきたいというわけです。
 でもそんなキリギリスの生き方でも映画『ダーウィンの悪夢』ではないけれど、南北問題の犠牲の上に成り立っているという疚しさはありますね。この国のC層であろうとも無縁ではないのではないでしょうか、
 ナイルパーチ魚研究所の夜警のおじさんが一ドルの日当で働いているのですが、「戦争が希望である」みたいな語りをする。
 僕はこちらのテキストのように時給8ドル以下、時給1,000円以下の仕事を長年やってきたのですが、そのことに対してそんなに不満はなかった。勝手にやらせてもらうことを最優先にしていましたね。でもね、人材派遣会社にとって営業は三人で出来る仕事を四人で出来るように上手に工夫することが、利益を上げることに繋がり、その匙加減が微妙です。そういうこともあるわけですよ。一人当たりの労働が過重になれば、人材派遣会社にとって、メリットはない。一人でやれる仕事を二人でやれるように暗黙の了解で適当に働いてくれる人を望んでいるのです。そうすれば、二人分の人件費マージンが計上される。と、まあ、こんなところです。
 兎に角、より良い条件で正社員という話があっても、キリギリスの生活が僕に合ったものだと思っていた。アリになりたくなかったのです。だから、アリになりたい人はアリになればいいと思う。
 ただ、アリであっても、勿論、キリギリスだって誰かを捕食して生きている。あの日当一ドルで働いている夜警やストリート・チルドレンや、様々な人びと、生き物たちの「いのち」を捕食して生きているんだという疚しさ、感謝、祈りを感じ、忘れないでおこうと思うが、僕はそこまで立派な人間ではない。せめて自栽することのないように自分の「いのち」を他者として広がりを持ったものとして慈しむしかない。
 「ヨコハマメリー」は真っ白いキリギリスでしたが、最後の老人ホームでは、その白塗りがなくて、すっぴんで、とても素敵な表情をしていた。