再チャレンジ支援プラン?

ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)
◆昨日の毎日新聞の「主張 提言 討論の広場」の紙面は毎日インタラクティブにデータアップされていないんですね。他の記事の半分以上はネットアップされて、僕も参照のため、時々特集記事などをブログにリンクしたりしているのですが、このぺージはインタラクティブな討論の広場なので、当然、ネットアップされていると思っていたのですが、どうもそうではない、ひょっとして僕が見逃しているのかな、それとも、編集部の意向であくまで紙面に限定した記事作りを心がけているのか、編集部より「…この欄へのご意見は東京本社論点編集部へ、郵送またはメールへお願いします」とありますが、せっかくのインタラクティブのサイトがあるのだから、そちらにも記事をネットアップして、コメントを収集すれば、沢山の関連情報が集まるのに、何で紙面だけに拘泥するのかと、まず、記事以前にそのことが気になりましたね。
◆それはともかく、本題は山本有二(金融・再チェレンジ担当相)&門倉貴史エコノミスト・『ワーキングプア』の著者)&赤木智弘(フリーター)がそれぞれイシューしている記事『「再チャレンジ支援プラン」を考える』について、山本さんは『格差固定化の回避をー次代を担う若者への支援が最重要課題 フリーター、パートの待遇向上目指すー』、門倉さんは『有効性には疑問残るーワーキングプアは経済全体に悪い影響 プランは企業の抵抗で実効性が不透明ー』、赤木さんは『自己責任の押し付けーフリーターが存在するのは社会の責任 再チャレンジに失敗したらどうなる?』とヘッドラインがついているのですが、山本さんの主張は総花的な作文ですね。昨年末の「再チャレンジ支援総合プラン」を項目を整理してそれに対する短いコメントを付記している。新聞紙面で確かめて下さい。
◆三つの課題に集約されるわけですよ。?フリーターや事業に失敗した人などを支援する「長期デフレ等による就職難、経済的困窮難等からの再チャレンジ」?子育て女性や心身の障害らの就労・学習を支援する「機会の均等化」?高齢者・団塊世代の活躍の場や社会人の学び直しの機会を拡大する「複線型社会の実現」で、今通常国会で労働法制の見直しを行うとしていますが、国内法だけの改正では是正できない問題が多過ぎる。門倉さんは厚生年金の問題点について言及していますが、国民年金と厚生年金との一元化の方向性に持ってゆかないと何らの出口が見えないのではないか、僕的には年金の財源は税金でというのが大昔から考えていたことです。第一、国民年金では月額、5、6万円しかもらえない。厚生年金なら月額20万円もらえる人が多いでしょう。何とかやってゆけます。5、6万円ならこの国で生活するのは難しい、貯金の食い潰しか、一か八か個人投資に励むしかない。本音はハイリスク、ハイリターンではなく、つつましく老後の生活を送りたいわけですが、月6万円なら、生活保護受給額の概略13万円以下ですよ、ワーキングプアという問題が露出したのも月額13万円以上をフルタイムで働いても困難だという経済背景があるという指摘で何とかしようと言う合意がみんなにある。そりゃあそうでしょう。こういう状況なら、高齢者の年金、医療問題は置くとしても少子化が拡大する原因にもなる。僕のような算術がやっと出来る頭でももうこれ以上のパイが大きくならないならば、分配をメリハリをつけてやるべきだと思う。例えば、?の提言の高齢者・団塊世代の活躍の場ですが、月額20万円もらっている人は天下りだとか、何とか諮問委員とか、無報酬のボランティアで働くのは大歓迎ですが、再雇用という形で若い人たちも雇用を奪うのはやめて欲しいなあと思う。生活できる年金をもらっている人は政治家であれ、ボランティアが原則ですよ。暴論でしょうか。勿論、民間にそのようなことを強制は出来ないでしょうが、方向性はそのようなものとして考えるべきでしょう。年寄りが働くことが美徳のような社会的コンセンサンスは色濃くあります。老後を一生懸命遊んで欲しいという世間の気配ぐらいはあって欲しいものです。働いて又財を増やそうとする魂胆は卑しいのであって、遊んで社会に還元するのが、勤めだという価値転換ですかね。年寄りが財を独占してはいけません。遊ぶのが嫌ならせめて個人投資をやってもらう。そうやっておカネの周りをよくするわけです。火遊びしたり、個人投資に失敗してすっからかんになったら、行政が出張って健康的で文化的な憲法が保証する最低限の生活を快く面倒を見たら良い。
◆門倉さんの最低賃金を抜本的に見直す案も企業は少なくとも時給で1000円を超える金額を労働者に保証しなければ、ワーキングプアの状況から脱却するのは難しいとありますが、グローバル化の波を受け入れて時給1000円以上で市場に出てゆくタメには安定層(B)から人件費の移行が工夫されないと無理だということで、廃案にはなったけれど取りあえず「ホワエグ問題」が浮上したのでしょうね。最初、年収400万円が、900万円の線引きになったみたいですが、あまりに反対が多かったということでしょうが、この問題は又、カタチを変えて再燃すると思う。
◆弱者の問題は弱者であるというカテゴライズされた徴を持つことで強度を持ち、強者として現れる。当初、弱者であったものが、徐々に強者に変貌してゆくそんな相に意識的であったのが、赤木さんの弱者論にはあると思う。赤木さんの世代のフリーターは先行世代の自由に憧れて正社員にならなかった格好のいいフリーター言説と違って、本当に心底から正社員になりたかったのに、運悪く就職氷河期にあたり、就職出来なかった。浪人就職という企業慣行があればともかく、この国では新卒神話が生きており、経団連の調べによれば年長フリーターを積極的に採用したいとする企業はわずか2%だと言う。赤木さんは書いている。

 そうした社会状況での「再チャレンジ」という言葉は、年長フリーターに手を差し伸べる政策ではなく、チャレンジに成功しなければ、生きる権利はないという、最後通告のように私は聞える。/年長フリーターたちの人間としての尊厳が危機に瀕してしる時に、権利が尊重されたり福祉が与えられるのではなく、その責任を問われるような社会が「美しい国」だなどと言えるだろうか?/これは決してフリーターだけの受難ではない。障害者自立支援法や、生活保護受給者に対する自立支援、そして介護保険法の改正など、普通の人と異なる境遇に立たされる人たちに対し、自己責任が押しつけられている。/今、日本は、個人が国や企業に対して「社会責任」を問う社会から、国や企業から個人が「自己責任」を問われる社会の変質しようとしている。年長フリーターの苦境はその一例に過ぎない。この流れにあなたがのみ込まれることも、決して遠い未来の話ではない。

 その通りだと思う。それに付随して弱者の問題ですが、年長フリーターの問題は「徴のない弱者問題」ですね、この側面からいつか書いて見たいと思う。赤木さんは経済的基盤から富裕層(A)、安定層(B)、貧困層(C)とカテゴライズしましたが、?自己責任の問題、?心、道徳の問題、?カタチの問題、として考えたいと思う。本来政治家は?のカタチの問題として行政を差配すべきはずなのに、?や?を語り始めましたね、?や?も同じ土俵ですよ。そうではなくて、善悪の彼方に、正邪を不問にして?の問題を徹底して考えるべきだと思う。という思考実験として永井均の『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)を読み始めたのですが、とても身につまされる本ですね。
「今、日本は、個人が国や企業に対して「社会責任」を問う社会から、国や企業から個人が「自己責任」を問われる社会の変質しようとしている。」、このことに関してもっと、もっと、自覚的であるべきですね。
 美しい日本の形容詞はいらない、日本そのものを経営するのが政治家の仕事でしょう。九条商店街で会ったあの侏儒のオヤジの名札の「日本国」の意味はナンダッタンダロウ、ただ、オヤジは誇らしげな顔をしていたね。哀しいことに生きるには何かが必要なんだろう。家であれ、地域であれ、会社であれ、国であれ、そのような記憶を忘却して、それでも人は生きてゆけるのか、戦争のない平和の世界を招来するとしたら、人びとは記憶ではない忘却の知恵を身に着けるしかないのか。
 参照:http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/news/20070124ddlk13040296000c.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070122-00000210-jij-pol