宿脳問題

http://www.dnc.ac.jp/center_exam/18exam/18seikai.html
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/nation/20070129a4850.html
オンライン書店ビーケーワン:鉄腕アトムは電気羊の夢を見るかオンライン書店ビーケーワン:天界の城オンライン書店ビーケーワン:マンガを解剖するオンライン書店ビーケーワン:君はピカソを知っているか
 マイミクさんがとても示唆に富むエントリーをアップしたので、そのまんまコピペアップしました。

 今年のセンター試験の世界史の問題をちらっと見ていると写真(画像)の多いこと。それも、その写真(画像)がなくては解けない、というものではなくイメージを喚起させるために提示されている、という使い方。理科でもちらほらとそういう使われかたをしていました。
 昨日、下の子の日曜参観というのがあって(子どもたちは今同じ市内の別々の公立小学校に通っているのでそれぞれの違いが面白かったりします。下の子の学校のほうがオーソドックスな感じ)、その日の授業はバリアフリー盲導犬視覚障害などについての発表をテーマごとに5つの班に分かれてするというものでした。これが、まさにプレゼンテーションなのですよ。
 同時に5つの班が発表して、観客の関心をいかにひくか、というのまで課題に含まれているのもなるほど、と思ったのですが。
 模造紙に自分たちの手でではありますが、画像データを描いてそれを示して発表していく、そのあり方が一世代前とは違っているように思いました。
上で書いたセンター試験の問題に通じる、「視覚」からのイメージ解析力というのが、ウィンドウズ・DSなどの同時に複画面の処理が当然という世代には必然にして必須なのだな、と。
 文章を読む・書く、という単線な分析とは違う次元を感じました。
 それで思い出されるのが、佐藤史生の『やどり木』(新書館 1988)という漫画。
 ある移民惑星は資源も貧困で開墾のための新型スーパーコンピュータの購入もままならない。ところが、この惑星に自生するある実を食べるとトランス状態に陥って普通と違う脳の活性化がおこり、機械に代わる働きを得る。
この活性は誰にでもおこるわけではなく、若く優秀で柔軟な若者たちの努力と偶然によってこの「宿脳」得るのですが、宿脳の働きのおもしろさはそこに「時間」が存在しない、ということなのです。
 理論的な言説をとる、そこにはすでに言葉、文節、文章による時間が発生するわけですし、コンピュータも現在は性能の向上というのはいかに早く1と0を計算できるか、というものであって、一方方向に流れる単線の時間に拘束されている。
 これが例えば、絵画など2次元資料では文章でならばひとしきり語らなければならないデータが一瞬で感知されるわけで、っそこには「時間」が存在しなくなります。
 『やどり木』の宿脳はさらに高次の把握をしてみせるわけですね。
 さてさて、今後私たちの脳も宿脳化していく方向にあるのか?
 とするとゲーム脳も堕落の方向とは言えないかもです。

 僕はこれに対してかようなコメントをしました。

昨日、クオリア日記のMP3データから楽しんだのですが、
この「宿脳問題」はこちらの講義につながっていますね。
【朝日カルチャーセンター 公開講座 脳とこころを考える ー美しいと感じる脳ー 対談2004.12.3 布施英利 × 茂木健一郎 対談 「芸術と科学を巡って」 音声ファイル (mp3、 55MB、120分)
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/~kenmogi/lectures/20041203asaculfusemogi.MP3
 布施さんは、東京芸大で三木成夫の弟子でありながら、養老孟司のところに弟子入りして美術解剖学から死体解剖学へと横断した美術評論家でもあるのですが、彼がこの講座で、ダヴィンチの「最後の晩餐」、ピカソの「ゲルニカ」には「すべてがある」というわけです。一枚の絵に時間を超えたすべてがあるというのです。ちなみに茂木さんと布施さんのところのお子さんは同じ年頃で、子どもの世界に驚くさまも面白かった。それが知らぬ間に忘れ去っているのです。でも、生命記憶として残っている。ピカソは子どものような絵を描くことが出来るけれど、子どもはピカソのように描くことは出来ない。

 クオリア問題は宿脳問題でもあるわけではないか。