街・町・路地・郊外

オンライン書店ビーケーワン:地域力を高めるこれからの協働オンライン書店ビーケーワン:東京から考える
昨日、白ばらセミナーで、今川晃氏の『市民参加のまちづくり』の話を聞いたのですが、二時間超でしたが面白かった。僕より年輩の方も多かったのですが、熱心に聴き入っていました。「コミュニティからまちつくり」の要は水平的関係の町内会、自治会(NPOも取り込んだ)の回路と地方自治体相互の横の繋がりと、行政と町内会、自治会(NPOなど)縦糸、横糸を織りなして協働する「まちつくり」を行おうとするわけです。最後に質疑応答でお年寄りが「コミュニティ」という概念と現に我々が暮らしている近隣の「町内」とどう違うのか、のような質問をしていたが、僕は凄く面白い指摘だと思いました。恐らく、郊外社会の誕生と人工物の共同体のような「コミュニティ」は随分ズレがあると思う。そんなことを思っていたら昨日のエントリーで偽日記さんが『東京から考える』(東浩紀・北田暁大)について言及していた。引用コピペしてみる。

動物化し、人間工学的に支配された消費行動をとるヤンキーによって占められるジャスコ的郊外に抗するものとしてあげられているのが、「上流」という「共同幻想」によって支えられる、青葉台のようなシミュラークル的広告郊外と呼ばれるもので、中央線沿線や下北沢のような、独自の歴史的、文化的な蓄積のある「においのある都市」ではないところに、東浩紀という人の、「文化的」なものに対する根深い不信というか、憎悪のようなものを感じてしまう。(「においのある都市」が「テーマパーク」としてしか生き残れない、というのは、東氏の「敵意」の表現ですらあるように感じられる。西荻について語る時ににじみ出るの東氏の敵意の感触。「においのある都市」が非常に「鬱陶しい」ものであることは、ぼくだって充分過ぎるくらい理解しているつもりなのだが、その「鬱陶しさ」こそが、ヤンキー化に抗する最大の防衛となっている側面があることは否定できないのだ。ぼくも、動物的で粗暴なヤンキー的世界に、ある種の清々しさのようなものを感じはするのだが、しかしそれだけではあまりに身も蓋もないし、逃げ場がないのではないだろうか。というか、文化の持つ「鬱陶しさ」につき合うのが「大人」ってもんなのではないだろうか。まあ、そういう意味では、ぼく自身も全く「大人」ではないのだけど。)

 質問したお年寄りに頭の中には偽日記さんが書く「においのある都市」が「まちつくり」に繋がるものとして、デザインされていたのだと思う。しかし、僕の中に「ヤンキー的な世界」も「鬱陶しさ」も一緒に受け入れたいというものがありますね。シミュラークル的広告郊外は住んで見たいとは思わない。今回のセミナーではかような広告郊外は頭の中に入っていなかったようですが、芦屋の六麓荘町のような町はこれから増えるかもしれないですね、ここの町会費は50万円ですって。自治会、町会も色々あって、新開発された住宅地では業者との契約で住民は全員、自治会員になり、自治会のための専従職員を雇っているところもありますね。僕のところは自治会員でない人もいるわけだし、それでも、ゴミ出しなど、行政サービスを平等に受けるわけで、町会費を出している人たちから、当番制の色々仕事をやらなければならないし、自治会員になっているメリットはなんですか?って訊かれても即答が出来ないですね。