グリム童話『星の銀貨』の三つの変奏曲

オンライン書店ビーケーワン:完訳グリム童話 3ブコウスキー詩集ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)
 グリム童話の『星の銀貨』は柴田洋子さんが朗読するものが原典でありますが、永井均著『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)の変奏としての『星の銀貨』物語が気になっているので、備忘録のように引き続いて書いてみます。
 【A】「『聖』少女」
 【B】「『愛』少女」
 【C】「『反』(不良)少女」
 永井さんの説明を概略すれば、B少女はA少女の空から降ってきた奇跡を学習し、マネて星の銀貨を手に入れる。「ほんとうに価値があるのは、パンや衣服ではなく星の銀貨であることを、始めから知っていたからです。」と書く。
 でも、C少女は「わたしはあの子たちとはちがう。星の銀貨なんかいらない。と決心して、原っぱに出て行く。

 少女は、腹ぺこの男に会っても、スカートのない女の子に会っても、シャツのない男の子に会っても、同情せずに、その都度、こう言いました。「わたしもわたしの苦しみに自分でたえるから、あなたもあなたの苦しみに自分でたえてね。わたし、あなたに会わなかったことにするわ。だから、あなたもわたしに会わなかったことにしてね。」少女は、みんなが自分の運命を受け入れることを望み、自分も自分の運命をそのまま受け入れたのです。
 少女が寒さにこごえながら、うずくまっていても、星たちは空高く輝いていました。「これでいいわ。これがわたしの人生なんだもの。何度でもこういう人生をおくりたい……」とつぶやいて、少女は死んでいきました。

 そして、あの世でC少女が他の二人にこう言い放つ。

 「あなたたち、もし星が降ってこなかったら、自分の人生を肯定できなかったでしょうね。人生を恨んだでしょうね。私はちがうわ。星の銀貨なんかなくたって、この人生それ自体を受け入れ、肯定することができるわ。あなたたちなんて、星の銀貨っていう、人生そのものの中にない、虚無によって救われているんだもの。気持ちが悪い。幽霊みたい。」
 最初の少女がそれに反論して言いました。
 「あなたも、あの子と同じ。星の銀貨のことがちっともわかっていない。星はね、気の毒な人たちにパンやシャツやスカートを差し出したら、そのとき、わたしのこころの中で降っていたのよ。後から降ってきたんじゃない……」
 最後の少女がその反論に応えて言いました。
 「そんなこと、知ってるわよ。あの子だって、その見えない銀貨が欲しかったのよ。あの子もあなたも、やっぱり、ほんとうに欲しいのは銀貨なんでしょ?わたしはそれが嫌なの。わたしはね、その銀貨がどんなものだとしても、そういうものだけは欲しくないのよ。わたし、そういうものを欲しがる人が、いちばん汚い人だと思うわ。あなたたちって、不潔よ。」
 すると、今まで黙っていた二番目の少女が口を開きました。
 「わたしは始めから、ただ銀貨が欲しかっただけ。この世でも、あの世でも、それがほんとうに使える銀貨なら、どんな種類の銀貨だって、わたしはかまわない。あなたたちって、なんか変。どこか似ている……」

 二番目の少女(B)は柴田さんの朗読動画/ブコウスキーの「五ドル」に登場する「愛」であり、三番目の少女(C)は「憎悪」なんでしょう。起源物語(A)→再帰的物語(B)→脱構築物語(C)→という具合に三角リングを行ったり来たりすると、どの少女の生き方も肯定も出来るし、否定も出来る。
 恐らく、僕たちはBのフェーズで「愛」を語るのでしょう。「恋愛」、「人間」の誕生は近代の産物なのだと賢しら気に言える。
 (A)の神を放逐して「奇跡の商品化」が到来する。「平然と負け続けることによって、相手を、自己懐疑、自己破壊に陥れる」という戦略はキリスト教ルサンチマンとも解釈出来る。A少女の振るまいは換骨奪胎で近代へと受け継がれて消費される。
 そして、そのリーチはニューロンエコノミー(神経経済学)まで届いている。
 C少女の言葉が武田徹オンライン日記の「詩」において、孫引きするなら、「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである」吉本隆明) と言えるかどうか、ブコウスキーの「五ドル」は毒を含んでいる。