加害者、いじめの証言を引き出す大切さ

オンライン書店ビーケーワン:さよなら、サイレント・ネイビープリゴジンの考えてきたこと (岩波科学ライブラリー (67))宮沢賢治―存在の祭りの中へ (岩波現代文庫―文芸)東大式 絶対情報学脳とクオリア なぜ脳に心が生まれるのか [ 茂木健一郎 ]
 伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』を読みました。「凄い!」と一言。著者が書かざるを得なかったという強い思いが伝わる。そのような情動だけではなく、脳認知科学としての所見による科学的なアクセスも試みる。「アフォーダンス」(茂木健一郎『脳とクオリア他』)とか、「総発」(イリヤ・プリゴジン『存在からの発展』、『混沌からの秩序』、『確実性の終焉』他)、「力の統一理論とゲージ対称性」(山本義隆重力と力学的世界―古典としての古典力学』他)、「自我と身体」(福原泰平『ラカン鏡像段階』、見田宗介宮沢賢治 存在の祭りの中へ』他)は、そのようなキーワードでしょう。「マインドコントロール=悟り=思考停止」における脳内の状況はどうなんだろうと、「近赤外線脳血流可視化システム」による実験を行い、再発防止を模索する。(伊東乾『絶対情報学』)
 帯文で書いている伊東の叫びは重い。

「誰かが黙って責任をとる」/これをずっと繰り返しているから、/1945年も1955年も、/そしていまも、/何一つ本当に裁かれないし、/日本は何一つ変わらない。
豊さん。/豊さんでしか語れない、/また豊さんだからこそ/語りうることを語ってくれないか。

「あの戦争は何だったのか」著者はお袋の空襲体験、オヤジの凄惨なシベリヤ体験をも記述する。そしてオウム問題は1995年から今も続いている、そして又、過去に遡らざるを得ないわれわれの問題として、検証を重ねる。かって物理学を専攻する仲間であった親友二人はサリン実行犯、音楽家として道が分かれて行ったが、伊東が豊さんになっていたかも知れないという想像力は常に堅持している。そうであるからこそ、かようなドキュメンタリーにありがちな下品さがない。豊田亨被告に対する眼差しが相対している。
 犯罪を防止するなら、カンボジアルワンダベトナム9・11にしろ、不幸な事態が再現されないために、何が必要か、まず、情報の収集が最優先でしょう。 そして最も大事な情報は加害者が抱え込んでいる。黙して語らなければ、語らそうとしなければ、その事件の真相に迫るどころか、見当違いの処方箋を生んでしまう危険性が大きくなる。武田徹は「許し」は「裁き」によって生まれる、「忘れる」ことからは生まれやしない。むしろ「殺す」ことになるのではないかと、卓見を先日、ブログで述べていたが、そうだと思う。
 2006年5月3日、米国連邦裁判所は、「同時多発テロ」事件の唯一の生存する被告、ザカリアス・ムサウィに対して、終身刑の判決を下した。検察の求刑は死刑だったのです。終生、情報源として活用出ることになったのです。
 団藤重光は「米国の裁判所は大変ふところが深く感心することがある」と言ったらしい。その死刑廃止論者の団藤重光から平泉澄の聞き取りを行うなど、本書もふところが深い作りにもなっている。ここの部分だけ引用するとある種の違和感がありますが、あえて引用してみます。

「『あの人は、なんというか、要するに思想的には大変な右翼なんですけど、こう、一緒にいると、なんかこっちまで気分が良くなってきちゃって、お宮参りとかしなきゃ、って気持ちになるような、そういう純粋な人でした』って」
(中略)
「つまり、戦争が終わったとき<潔く>辞表を出した平泉さんを、誰も右翼のイデオローグとして戦後に責任追及なんかしようと絶対に思わなかったわけでしょ。そういう人だったし、教授会もGHQも、みんなそう思って当然という空気だった。実際、平泉澄は<楠公精神>とか<真木和泉>なんか持ち出して<玉砕>や<自爆特攻>を科学的兵器と結びつけるべく論拠付ける決定的な役割を果たした、これは間違いない。でもそのことを誰も犯罪的と思わない、思えない、ある<穢れが祓われてしまった空気>があって、戦後89歳で亡くなるまで、平泉さんは長寿を全うするわけだよね。誰もそれを問題ともなんとも思わない」(285、6頁)

 肉声が聞えるようですね、本書は玉音放送の音声メディアの論理的判断に対する優位性などにも言及するのですが、本書は見事な「マスメディア論」にもなっている。偶然、僕は茂木さんのクオリア日記のMP3で、団藤さんの声を聴きましたが(多分)、元気ですね、93歳なんだ。この項つづく
参照:回天特別攻撃隊動画♪「さくら」です。

「加害者の証言」の意味 その1 - 双風亭日乗はてな出張所「加害者の証言」の意味 その2 - 双風亭日乗はてな出張所
岡林信康が歌っています。