何が“現代”を殺したのか?

小説の誕生百年の孤独 ニッポンの小説バッハ:ゴルトベルク変奏曲
 保坂和志さんのweb草思『世界はこんなふうにも眺められる』 の12回目「いまや忘れられつつある“現代”」コンテンポラリーアートとしての「現代」とは?を問う。このエッセイは凄く大事な問いを発している。
 僕は二年前の茂木健一郎クオリア日記で聞いた高橋悠治とのスリリングなトークを思い出しました。高橋さんは、同じような問いを茂木さんに妥協せず投げかけていたのではないか、そして、今年、朝日新聞のPR誌『一冊の本・三月号』で、金井美恵子さんが書いている、

「何かがグルリと一回り」したうえに、あたかも、その間の何十年かの世界の全ての記憶が消し去られているかのような奇妙で不自然な、のっぺりした保守的で平穏で大仰なきまり文句が行きかう世界が、印刷されたあどけない文字として流通している。ー(9)連載エッセイ『感冒日記』ー

 そのことでもあるだろう、“現代”は忘れられつつあるのであろうか、そんなことはないはずだ。
 都知事選で、突然、外山恒一が飛び出してきたが、そこに忘れつつある“現代”の暗喩を見たという奇妙な感触がありますね。
 東京猫さんのコメント欄である人が高橋源一郎は今出てる「SIGHT」誌(07年春号)のコラムで、ちょうど内田裕也政見放送について触れています。そこでは、ある種の直截性でもって「世界を凍らせる」ことの意味が述べられているように思いました。おそらく高橋が、小島信夫中原昌也の小説(というか言葉)に見ているのも、そういった部分なのでしょうね。』
 先日、ブログに書いた『詩と小説の「戦争」』の謂いで言えば、石原慎太郎は小説(散文)家であり、もしそれに抗すなら、「詩」でしかない気がする。*1
 外山がそう言う意味で詩人かどうかはわからない。僕は彼のことは全く知らなかったのです。今回、初めて動画でお目にかかった感想からこんなことを書いているのですが、結局、東京に限らず世の中は小説を安心、安全で読みたがるのでしょう。勿論、保坂さんは“現代”小説に果敢に挑戦しているわけでしょう。
 「詩」(“現代”小説)には時たまつまみ食いして外部に排除する。詩人でなく、小説家を選択する。詩人は常に少数派で、多数派から祝祭そして祭り上がられたり、忌避される。でも、「クオリア」はそのような外部へと接続する冒険行ではなかったか、鼻がつ〜んとする感じ、臭みではなかったか、
 今日はこれから木津川、宇治川桂川が合流する淀川背割り堤の櫻を見に出かけます。ここの櫻は荒々しい豪快なのもので、巨木が多いです。花の匂いを嗅いで、クオリア体験致します。
 そうそう、昨日、テレビで植木等を追悼する番組で、内田裕也が出演していましたね、とてもいい顔をしていました。これが年を取るということなのかと、反省しましたね。

*1:「SIGHT」掲載の高橋さんの記事を読みました。反省しない、本音を吐くイシハラ、コイズミは、自省する悩み多い(近代)小説家ではなくて、外山が詩人であるならば、詩人なのかもしれない、むしろ、産む機械発言で、反省し落ち込んだヤナギサワは小説家なのでしょう。