このようなブログが始まっていました。
三人の独立したブロガー、id:eirene、id:kanjinai、id:x0000000000さんが、「G★RDIAS」を始めたのですね、今、初めて気がつきました。
『生き方としての学問』は実存としての学者の「棘」、「破断」を対峙するところから始まるのでしょうか。
現代の社会学で、このようなスタンスを公言しているものは、どのくらいあるのだろうか? 私は社会学は詳しくないので、ぜひコメント欄で教えてほしい。思うに、社会学にはこのようなスタンスは潜在的にはたくさんあるのだが、なかなかそれを公言できにくいということなのかもしれない(なぜなら「客観性」が失われるから)。エスノや臨床社会学にはこのようなスタンスのものはあるような気がする。「自分と向き合う社会学」「生き方としての社会学」ということを、レトリックとしてではなく、方法論としてもちいる社会学があるとしたら、それは、もう生命学とつながりあっていると私は思う。社会学と生命学の架橋ということを、本気で考えてみたい。
下のエントリーで、紹介した『いじめと現代社会』での内藤朝雄さんはインタビュー記事でいわば「生々しい棘」を社会学者として語ったのですが、id:kanjinaiさんから見れば、「生命学的アプローチ」と言えるものであろうか。
参照:内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−
2007-04-05
★http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070401/p1