キミならどうする?

 保坂和志:日経新聞掲載『新入社員の困惑』(2007年4月14日)という記事で保坂さんが新入社員にいじめの対処法を書いている。確かに学校のいじめより会社のいじめの方が大変かも知れない。

とにかく意地悪な人は自分の意思ならざる力に操られるようにして意地悪をしてしまっているのだ。
 そう思って見るようになれば、された意地悪にどっぷりとはまっていた自分の心のありようが変わる。「あの人は意地悪なんかに労力を使って、なんと人生を空費していることか」と思うようになれる。人間関係というは心理戦だから、相手の見極めさえつけば、心理的に優位に立つことができる。そうすれば、そのうちにやられっぱなしではなくなる。

 出来るだけ生き辛さを軽減する社会的デザインを構築するのは、どうしたらいいのか、僕にはわからない。保坂さんの言う「見極め」っていうのは日常的にやっているような気がする。時には相手の懐深く入らなければ、「見極め」がつかないことがあるけれど、次の一手は、仮説であろうとも、「相手を知る、視る」ことから始めるしかない。
 さっき、NHK教育の現実から学ぶ道徳番組(小学校5・6年)を見ていたら、あまりに重いテーマにどちらにも決断しかねる僕がいました。サルを愛した写真家が、それが故に自分の手で処分せざるを得なかった苦悩がある。「動物の命か、人間の生活か」と、その二分法を回避できない事態が生じた時、「キミならどする?」って問われても、答えはない、ただ、その時、様々な状況、体調、心、その折りの状態で、僕は何らかの行動をとるだろう。
 規範として語ることは出来る。でも、実際に、やるか、どうかはわからない、『「G★RDIAS」のid:kanjinaiさんのホームレスの人を助けなかった私』の問題提起は「キミならどうする?」って突きつけられるが、先月でしたが、図書館の端末を触っていたら、窓越しから、歩道橋を歩いていたお爺さんが突然倒れたのが見えて、僕は図書館のスタッフに声かけして、飛び出したが、こんな臨機応変の行動は時たまします。
 でもね、常にそうするとは限らない、人通りのあるところなら、僕でなくとも誰かが助けに行くだろう、と暫く様子を見るかもしれない。エントリーした事例では、近くに交番があれば、又は警官がいれば、声かけをしていたでしょう。同じ町内なら間違いなく行動したと思う。それが都心なり、知らない街で偶然通りかかったのなら、そのまま通りすぎる蓋然性が高いかもしれない。
 id:kanjinaiさんが問う、『この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。』回答は見殺しにしたという理屈も、見殺しをしていないという理屈も両方とも立てられるだろう、でも、そのような問答は僕には徒労に似たものを感じる。 
 それよりか、僕の身体が出来る限り他者に開かれた風通しのよいものに、無理せず、反応するものにしたいと馴染ませるように方向指示器を向かわせることしか出来ない。個々の実存的な問いなのです。答えはない。
 例えば、知人の女の子で、朝早く、アルバイトに行く途中、路上の段ボールハウスで眠りこけているホームレスの頭なり足下に気づかれずにそ〜と、暖かい缶コーヒーを置いてきたりすることが偶にあると言っていましたが、そういう振る舞いが自然に出来るということです。
 僕はそういうことが出来ない、精々、雑誌のビッグイシューを購入するぐらいです。近くの公園に住んでいるホームレスは、段ボールハウス、テントを設置しないで、雨露しのげる屋根があるベンチに寝て生活しているのですが、時々公園内のトイレを清掃している。
 京都の鴨川の女のホームレスで、ある日、通りすがりの男の子がカメラを構えて撮らせてくれと頼んだのですが、断固として拒否しましたね、助けるにしても、何かするにしても、こちらの気持ちだけで、善意の押し売り、思い込みで、やってはいけない、淀屋橋に時々見かける画を描いているホームレスの「ゴッホさん」にしても通りすがりに声かけか、そういう固有名詞の日常的な触れ合いから身体を馴染ませるということです。
 大上段に理屈とか、大文字で、「他者問題」を窮屈に考えるとニッチもサッチもいかなくなると思う。